「ハッキングの流れというのは、大雑把に言うとこうだ」
  宮本さんは胸元からボールペンを取り出し、その辺に適当にあったチラシの裏に素早く文字を書き始めた。

下見

侵入

目的遂行

足跡消去

脱出

「ケースによって例外はいくらでもあるだろうが、とりあえず基本的にはこの流れを大きく踏み外すことはない」と宮本さんは矢印の流れをペンの背でなぞりながら言った。

「さて、アユム君、この図でいうハッキングの一番最初のステップはなんだい?」
「下見、ですか」と僕は言った。
「そう、下見だ。素人ほどこの下見行為を軽んじがちだが、実際はこの下見の調査結果で成功か失敗かほぼ決まってしまうというくらい重要な要素なんだ。ほら、昔から言うだろう?『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』って。プロほどこの下見を慎重に念入りにやるものだ。もちろん、この娘も例外じゃない」
  宮本さんが指指す方向を振り向くと、アスカが僕の後ろに立って腕組みしながらチラシの文字を眺めていた。いつの間に背後を取られていたのだろう、まったく近づいてくる気配を感じなかった。なんだか山猫みたいな奴だな、と僕は思った。
「ところが、念入りな下見には当然それなりの時間と労力がかかる」
  宮本さんは続けた。「見ての通り、この娘は社会的にはただの女子高生だ。学校には通わなきゃいけないし、毎晩遅くまで家に帰らないってわけにもいかない。こっちの仕事が何軒も入って立て込んでくると、とても一人では全ての依頼に対してきめ細やかな下見をこなすなんてことは出来なくなるわけだな。そこでアユム君、君の出番というわけだ」
「え?」
  突然「出番」だなどと言われて僕は動揺した。しかし、今の話でここで僕が何をさせられるのかについては何となく見えてきた。
「つまり、僕はこの娘のアシスタントとして下見を手伝えばいいんですね?」と僕は言った。
  宮本さんはにやりと笑った。「その通り。さすが一流大学にいるだけのことはある、頭は切れるみたいだね」
  僕はずっと怯えていた仕事の内容がようやく判明した安堵感に思わず溜息をついた。しかも予想していたよりはずっと楽そうな仕事だ。これなら、と僕は思った。しかしまだ安心するには早すぎる。僕は気を引き締め直し、さらに質問を続けた。
「しかし、下見とはいえハッキングの一部、違法行為でしょう?僕なんかがうろ覚えでやってヘマして、みんな捕まっちゃうなんてことはないんですか」
「まあそういう可能性もなくはないわね」
  アスカが突然背後で声を出した。そして僕の肩をばんばん叩き、「でも大丈夫。あたしが直々に教えるんだもん、万に一つも捕まるなんてことはないから」と言った。
  そのあんたに教わるから不安なんじゃないか。と僕は思ったが、これももちろん口には出さなかった。この娘の性格から推測するに、うかつな皮肉の一つも言おうものならたちまちギャーギャーわめきだすに決まってる。
  宮本さんは胸元から煙草を取り出し火をつけ、言った。
「捕まる捕まらないの話に限って言うなら、たとえどれだけドジを踏もうと君が捕まることは100パーセントありえない。安心していいよ」
「それはどうしてです?」と僕は言った。
「君がやったことにならないからだよ」
  宮本さんは美味そうに煙を吐いた。「そこら辺はまあ、こっちも伊達にヤクザやってるわけじゃないんでね。いろいろとあるのさ、抜け道がね」
「抜け道?」
「そうだね、そのへんのカラクリも少しずつ理解してってもらうことになるかな」
「はあ」
  なんだかよくわからないがヤバそうな匂いのする話だった。僕は思わず姿勢を正した。そうなのだ、とてもそうは見えないけれど宮本さんはヤクザなのだ。小指を詰めたり刺青を彫ったり人を撃ち殺したりする、ヤクザなのだ。いくら新法とやらで表向き大人しくなったとはいえ、ヤクザがヤクザである以上裏の仕事汚い仕事をしていないはずがないのだ。やはりそう簡単に気を許すわけにはいかない。最後の警戒心だけは常に残しておかねば。
「ただ逮捕されることはないといっても、警察にここのマンションが突き止められたらそれはそれで非常に面倒なことになる」と宮本さんは言った。「よそでまた設備をととのえるとなると、莫大な金と時間がかかるからね」
「それに、あたしの遊び場所が無くなっちゃうしね」
  アスカが僕の頭に両腕を乗せて喋った。まったくこの娘は初対面のくせになんという馴れ馴れしさなのだろう。僕は小生意気なアスカの顔を見上げようとした。しかし頭の上の両腕と、一丁前に大きな胸が邪魔でよく見えなかった。宮本さんはそんなアスカにいいように舐められている僕を見て申し訳なさそうに苦笑した。
「まあ、簡単にまとめるとだね」と宮本さんは言った。
「雇い主である我々組織は君たち現場のハッカーが捕まることがないよういろいろと手を回し、保護している。君たちの万が一のミスは我々が尻拭いする。君たちは何も心配せずに仕事に励んでくれればいい。
が、ミスはあくまでも『万が一』であって欲しいし、あってくれないと困る。ミスしないことを期待しているからこそ専門のプロと契約を結んでいるわけだからね。だから君にもアシスタントとはいえ、プロのはしくれとしてのそれなりの自覚を持って臨んでもらいたい。そして一日も早く仕事を覚えて欲しい、と。こちらの立場としてはそんな感じかな」
  宮本さんは見るからに高そうなクリスタルの灰皿で煙草をもみ消した。「給料は事前に言ってあるように、日給2万。場所はここ。出勤日はとりあえず火曜と金曜。時間はそのたびに電話でこちらで指定する。臨時に呼び出したり休みにしてもらったりすることもあるかもしれないけれど、そのへんは全部この娘の都合次第ってことになるね。以上、何か質問は?」
  僕は少し考えを整理してから発言した。「あの、ここまでの交通手段なんですけど」
「それはもうなんでもいいよ」と宮本さんは言った。「自転車でもバイクでも車でも、なんでも。停めるとこはあるから」
「バイクで来なよ、アユム」
  またしても真上から声がした。相変わらず両手は僕の頭の上だ。
「あたしのモモちゃんとツーリングしよう、ツーリング」
  僕は正面を向き続けたままの姿勢で頭の上の両腕を一本ずつ丁寧に降ろし、そのままアスカを無視して喋った。「それと、もうひとつ聞いておきたいことがあるんですけど」
「なんだい」と宮本さんは言った。
「やめたくなった時は、すぐにやめられるんでしょうか」
  宮本さんはしばらくの間何も言わず灰皿で燻っている煙草の細長い煙を見つめていた。なんだか怒っているようにも見える。そりゃそうだ、まだ仕事を始めてもいないうちから僕はもう「やめたくなったとき」の話をしているのだ。最初からこれでは根気のない奴だと判断されても仕方ないだろう。しかし、僕にだってやむにやまれぬ事情というものはある。退路の確保。これだけは今、まだ引き返すことが可能な今しておかなければならない僕の最重要課題なのだ。いつでも逃げ出せるという条件が約束されない限り、この仕事は引き受けるわけにはいかない。返事いかんによってはここできっぱりとオリるという覚悟もすでに決めていた。
  宮本さんも僕のその覚悟は充分察しているらしく、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「もちろん、やめるのは君の自由だし僕らにそれを引き止める権利はない。そこは他のバイトと一緒だよ。君がここに来なくなればそれでお終いだ。ただし」
  宮本さんは「ただし」の部分を強調して言った。「ただし、一度この世界に足を踏み入れたが最後、君はおそらくやめることなんて考えられなくなるよ」
「考えられなくなる?」僕は訊き返した。「それはどうして?」
「楽しいからだよ」宮本さんは即答した。「あまりの楽しさに二度とやめられなくなる。そういった意味では、今のうち引き返しておいたほうが賢明と言えなくもないかもな」
  楽しくてやめられなくなる?
  僕は宮本さんのその言葉の可能性について少し考えてみた。楽しくてやめられなくなる。確かに僕は物事に熱中しやすいタイプの人間だ。一度ハマったものには睡眠食事を忘れて没頭する癖がある。しかし、ハッキングが僕のその情熱を呼び覚ますに値するほどのものであるのかは、今の段階では検討もつきそうになかった。
「あなたはいま、不思議の国の入り口にいるのよ」
  アスカがどこからか声を出した。僕が驚いて部屋を見回すと、アスカはいつの間にか廊下の前に立っていた。そして僕に手招きして、「ついてきて、アユム」と言った。
「今からちょっと面白いもの見してあげる」

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