とにかく、家具というものがおよそ何もない部屋だった。 フローリングの木目がやたらに目立つその部屋には本来あるべきはずの生活の匂いというものが全く感じられなかった。まるでモデルハウスを見学に来ているみたいだ。こうしてソファに腰掛けていてもまるで落ち着いた感じがしない。 「で、アユムは何飲むのー?」 奥のキッチンの方から甲高い声が響いてくる。声の幼さだけなら小学生の女の子と言っても通りそうだ。 「麦茶でいい?コーラもあるけど」 アスカがひょっこり顔を出した。右手に麦茶のポット、左手にコーラのペットボトルを持っていた。 「なんでもいいよ」と僕はぶっきらぼうに言った。 「じゃ、全員麦茶に決まりね。あたし麦茶好きー」 アスカは冷蔵庫にコーラをしまい、代わりに左手一本でグラスを三つ危なげに持って僕らのソファの前のテーブルにやってきた。ひょこひょことした足つきが妙に気になる。先刻、玄関前で見たときも足を少し引きずっていたような気がしたのだが、どうやら見間違いではなかったようだ。 「やっぱり気になる?これ」 アスカは麦茶とグラスを高級そうなガラステーブルの上に乗せ、指でとんとんと左足のかかとの辺りをつついた。 「事故ったのよ。子供の頃。その傷のせいで、歩くとき左足に力が込められないのよ」 アスカは大事そうに左足をさすった。「でもま、ルーズソックス履いてられるのだけがジョシコーセーやってる唯一のメリットかな。傷跡隠すのにちょうどいいんだな、これがまた」 あはははは、とアスカは屈託無く笑った。 そう言われてよく見てみると、アスカの足首は右と左で微妙に太さが異なっていた。巨大なルーズソックスのおかげでなんとか誤魔化せてはいるものの、やはりその微妙なアンバランスさから来る僅かな違和感は拭いきれなかった。 しかし足の微妙な不揃い加減さえ除けば、それ以外のアスカのプロポーションは文句のつけようもないほどに完璧だった。低い背、幼い顔立ちの割に大きめな胸、細くしなやかにくびれた腰。健康的、という言葉がぴたりと当てはまるような瑞々しい身体だった。白く艶やかな肌がまるで生命のオーラを纏っているかのように神々しく輝いていた。 「ミヤモトさん、途中でお茶菓子かなんか買ってこなかったの?」 アスカはグラスに麦茶を注ぎながら、僕の向かいに座り煙草を吹かしていた宮本さんに話しかけた。 「あ、忘れた。ごめんごめん」 宮本さんは無表情に煙を燻らせながら言った。 アスカはやれやれしょうがないな、という表情で、突然僕に向かって「ごめんねアユム、この人、気きかない人で」と話を振った。 「ん、ああ、別に気を使わなくても」まごついた僕はよくわからない返事をした。 そうなのだ、僕にはわからないことが山ほどあるのだ。まず第一に、宮本さんとこのバカっぽそうな脳天気娘はいったいどういう繋がりなんだ。宮本さんの話ではどうやらこの娘がハッカーらしいのだが…どうひいき目に見ても、彼女にハッキングなんて大胆で知的なことが出来るとは思えない。本当はこの娘、宮本さんの援交相手かなんかじゃないのか? ふと僕の頭にそんな疑念がよぎった。それともう一つ。なぜこの娘は僕の名前を呼び捨てにしているのだ? いくら礼儀知らずのジョシコーセー相手とはいえ、やはり見ず知らずの年下にいきなり名前呼び捨てにされるのは正直、気持ちよくない。敬語を使えとは言わないから、せめて「入沢さん」か「アユムさん」で呼んで欲しい。 「さすがに戸惑ってるみたいだね」 宮本さんがにやにや笑いながら言った。「まあその辺に関しては僕が全面的に悪い。ここに着くまで君のこと、あえて黙ってたからな。びっくりするかなーと思ったんだ、悪いね、だましうちしたみたいな形になって」 「はあ」と僕は言った。それ以外に何を言えるというのだ。 「なんで、あたしを見てびっくりするのよ」アスカが頬をぷくっと膨らませて言った。「こんなカワイイ女子高生つかまえて、びっくりするだなんて。失礼しちゃうわまったく。ねっ、アユム」 アスカはまた僕に話を振ってきた。また、呼び捨てだ。僕は返事をせず、黙ってテーブルの上の麦茶をあおった。よく冷えていて美味い麦茶だった。 「…なんか、いろいろと訊きたいことありそうな顔してるわね」 アスカは僕の反応の悪さに面白くない、といった表情でソファに深くもたれかかった。天井から吹き付ける空調の冷風が、彼女の細く綺麗な栗色の髪を優しくたなびかせていた。 「訊きたいことは山ほどあるね」と僕は挑発するような声でアスカを睨み付けた。「まず、なんできみがさっきから僕を気安く呼び捨てで呼んでいるのか、について訊きたいな」 「あら、そんなつまらないこと気にしてたの」 アスカは笑った。「あたしはあたしなりに親愛の情を込めて呼び捨てにしてるんだけど。もしかして気に障った?」 「べつに」と僕は言った。 「じゃ、いいじゃない」とアスカはあっさり言い放った。この娘は人の発言の裏を読むということをしないらしい。 「それに、あなたはこれからあたしの助手をやるのよ? 先生が助手に向かって敬語で話すってのも、へンな話だとは思わない?」 「助手」僕はオウム返しのように繰り返した。「それも僕はまだ、なにも聞いてない」 「え? ミヤモトさん、なにも説明してなかったの?」アスカは呆れた声で言った。 宮本さんはぽりぽりと頭を掻いた。「…今から説明しようと思ってたんだよ」 |
窓の向こうにオレンジ色に輝く夕焼けの空が見える。気が付けばもう時計は夕方6時を回っていた。 無駄に広い部屋の隅には冷蔵庫みたいに巨大な大画面テレビが不気味に鎮座している。色つやからしてまだ新品らしい。ものすごく高価な代物であろうことだけは機械オンチの僕にもわかる。テレビの台座部分に収まっているのは形からしてどうやらプレステ2のようだ。あの小娘が遊ぶために用意したのだろうか。 「さて、アユム君」 宮本さんがソファの座りを正して、言った。あの小娘の影響だろう、呼び方が「入沢君」から「アユム君」にすっかり変わってしまっていた。 「君はおそらく今、こう考えているんだろう。『この女の子が、17歳の女子高生がハッカーだって? 嘘だろう?』と。違うかい?」 ぼくはちらりとアスカのほうを覗き見た。アスカは退屈そうに足をぶらぶらさせながら僕らの会話に耳を傾けていた。 「ありていに言えば、そう思ってますね」と僕は言った。 「具体的な証拠を見せてもらわないことには、なんとも」 「まあ、当然の反応だね」と宮本さんは笑った。「僕だって実際その目で確認するまでは信じられなかった。女子高生がハッキングをする、なんて話はね。でもアユム君、海の向こうではそんなことはまったく珍しい話ではないんだよ。 たとえばアメリカの中高生は練習代わりに自分たちの国の国防総省ペンタゴンにハッキングを仕掛ける。アユム君、ペンタゴンのシステムが彼らハッカー・キッズに侵入される回数は一年にどれくらいあると思う?」 「ペンタゴン、ですか?」と僕は言った。 ペンタゴン、僕は映画や漫画の中でしかその名を聞いたことがない。しかしまあその名のものものしさくらいには厳しい警備システムではあるだろう。「10回くらい、ですかね」と僕は適当に思いついた数字を言ってみた。 宮本さんはにやりと笑った。「そんなもんだと思うだろう? でも現実はそうじゃない。アメリカ国防省は一年に約16万回もの不正侵入を許しているんだよ。攻撃を受けた回数だけなら実に25万回に上る」 「25万回、ですか」と僕は言った。そしてアスカを指さして、言った。 「それを行っているのが、こういう年端もいかない子供たちだっていうんですか?」 「ちょっと、『年端もいかない子供』ってどういうことよ」 アスカがソファの上のクッションを投げつけてきた。クッションは抜群のコントロールで僕の顔面に突き刺さった。宮本さんはそれを見てげらげらと笑った。 「まあ、全部が全部そうだってわけじゃないけどね。要するに僕が言いたいのは、国防総省侵入なんてのはアメリカじゃ既にもう中高生の暇つぶし程度のことでしかないということなんだ。海の向こうがそんな状態だっていう今、日本人の女子高生がハッキングをすることだって決しておかしいことじゃないだろう? ハッキングの世界は年功序列じゃないんだ。スキルさえあれば年齢も素性も関係ない、そういう世界なんだ」 僕はアスカに放られたクッションを抱きかかえながら、あらためてアスカの顔を眺めてみた。 細くしなやかな栗色の髪。面倒くさそうにふたつくくりに結わえられたその無造作な髪はただでさえ童顔なアスカの顔立ちをさらに幼く見せていた。これでは小学生と言ったって通用しそうじゃないか。たとえ海の向こうの事情がどうだろうとも、やはり具体的な証拠を提示されない限りはこの娘がハッカーだなんて話を信じることはできそうにない。だって、まるっきり小学生じゃないか。 「ふん、バカみたい」 僕がまじまじと眺め回していたのが気に障ったのか、アスカは不機嫌そうに頬杖をついて言った。 「国防総省なんてつまんないとこ入って喜んでる奴等なんかハッカーじゃないわよ。あたしをそんなそこらのつまんない厨房と一緒にされると困るな、ミヤモトさん」 アスカの口から厨房なんて言葉が飛び出したので、僕は思わず口元を緩ませた。厨房だって。自分は小学生みたいな顔してるくせに。 「そんなことよりミヤモトさん、とっとと本題に入ろうよ。前振りはもういいからさ」 「ああうん、そうだな」と宮本さんは言った。「僕が話すとつい話が逸れちゃうんだよ。悪い癖だな」 「うんちく好きだもんね、ミヤモトさん」アスカがにやけて言った。「まあね」と宮本さんが返事した。なんだか仲の良い父と娘の会話みたいに見えた。 「さあ、それじゃアユム君」と宮本さんは言った。 「そろそろ君の仕事についての話をしようか」 |