第拾回「はつ恋」
作者あらすじ
イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフ(1818〜1883)

ロシア・オリョールの貴族家系に生まれる。ペテルスブルグ大学文学部哲学科を卒業後、20歳でベルリン大学に留学。美しい自然の中で生きる農民の生活を写し描いた短編集「猟人日記」は大流行し農奴制批判の気運を高めたが、政府の反感を買い後に幽閉されてしまう。作品に通底するニヒリズムと叙情溢れる自然描写は後のロシア文学のみならず欧州全土の文豪たちに広く影響を与えた。日本では二葉亭四迷によって翻訳され、明治初期の文壇に自然主義の風潮をもたらした。他の代表作は「ルージン」「父と子」「処女地」など。
 16歳のヴラジミールは両親の持つモスクワの別荘で近所に住む21歳の令嬢・ジナイーダと出会い一目で恋に落ちてしまう。純情な彼は自由奔放で複数の男を手玉に取るジナイーダに日々翻弄されるばかりだったが、彼の恋心は募る一方。だがある日、彼はジナイーダが自分以外の誰かに恋をしていることに気がついてしまう。気も狂わんばかりの苦しみの末についに突きとめたその逢瀬の相手は、よりにもよって自分の父親であったのだった…
 彼女の顔は、昨日より一層魅力が増して見えた。目鼻だちが何から何まで、実にほっそりと磨かれて、じつに聡明で実に可愛らしかった。彼女は、白い巻揚げカーテンを下ろした窓に、背を向けて座っていた。日ざしは、そのカーテンを通して射し入って、柔らかな光を、彼女のふさふさした金色の髪や、その清らかな首筋や、流れ下る肩の曲線や、優しい安らかな胸のあたりに、ふりそそいでいた。――わたしはじっと彼女を眺めているうちに、彼女がなんとも言えず大切で、親愛なものに思えてきたのだ!
 わたしは、もうずっと前から彼女を知っていて、彼女と知り合いになるまでは、何ひとつ知りもせず、生きた甲斐もなかったような気がした。……彼女はもうだいぶ着古した地味な色合いの服を着て、エプロンを掛けていた。その服やエプロンの襞を一つ一つ、いそいそと撫でたいような気持がした。彼女の靴の先が、その服の下からのぞいている。わたしはできることなら、うやうやしくその靴にぬかずきたいとさえ思った。


 ロシア文学といったらトルストイ・ドストエフスキーの2トップが鉄板で、ツルゲーネフは理系の人なんかにはいまいち馴染みがない名前なのかもしれない。まあ文系でもどうせロシア文学なんて作者とタイトルしか知らない、読んだことなど一度もないという人間ばかりだろうから一緒といえば一緒なのだが。かく言う僕もロシア文学は惨敗続きでほとんど読破できていない(なにしろ名前が長くて覚えられん)。お恥ずかしい限りだ。だが幸運なことにこんな僕でもなんとかついていけて、しかもすごく面白いと思えるロシア小説に一つだけ巡り会うことができた。それが今回取り上げるツルゲーネフの「はつ恋」だ。
 上の引用テキストは物語序盤、16歳のヴラジミール君が年上の妖艶なお姉さんことジナイーダと初めて対面した時の心理描写だがなにげにヴラジミール君、趣味がマニアックである。エプロンの襞を撫でたいだの靴にぬかずきたいだの、初恋にしては君それはちょっとフェチ入りすぎなのでは…と余計な心配をしたくなるところだが、まあ気持ちは痛いほどよくわかる。エプロンは反則だ。

 さて物語は一途なヴラジミール君の想いを知りながらそれを弄ぶジナイーダたんの小悪魔っぷりを見せつけつつ進行していく。自分に好意のある青年たちを一同に集めて今の日本でいう「王様ゲーム」を開きはしゃぐ(しかもわざとウブなウラジミール君をひいきして可愛がって遊ぶ)ところなど、どこか第参回で取り上げた「痴人の愛」のナオミたんを彷彿とさせる。つまりジナイーダたんもナオミと同じ、天然の小悪魔サディストなのだ。そして哀れな純情少年ウラジミール君はこの小悪魔に翻弄されることにまで幸福を見出すようになる。

 ジナイーダがいないと、わたしは気が滅入った。何ひとつ頭に浮かんでこず、何ごとも手につかなかった。わたしは何日もぶっつづけに、明けても暮れても、しきりに彼女のことを思っていた。わたしは気が滅入った……とはいえ、彼女がいる時でも、別に気が楽になったわけではない。わたしは嫉妬したり、自分の小っぽけさ加減に愛想をつかしたり、馬鹿みたいにすねてみたり、馬鹿みたいに平つくばったり、――そのくせ、どうにもならない引力で彼女の方へ引きつけられて、彼女の居間の敷居をまたぐ都度、わたしは思わず知らず、幸福のおののきに総身が震えるのだった。

 この描写に共感できない男はたぶんいないだろう。そしてこれを読んで「こんな風に想われてみたい」と胸がときめかない女の子もたぶんいない。19世紀ロシアという舞台においてもいつの時代においても、恋の喜びや苦しみというのは不変なのだということがよくわかる一文だと思う。
 やがて愛しのジナイーダたんが誰か別の男に恋をしていることを知り、狂わんばかりの苦しみを抱えるヴラジミール君。彼の想いがどれほどのものかを表す、僕がこの小説で一番好きなシーンを見て欲しい。
 「あなたはいつも、わたしを愛しているとおっしゃるわね。――そんならここまで、この道まで、飛び下りてごらんなさい。もし、本当にわたしを愛しているのなら」
 ジナイーダが、終りまで言い切らぬうちに、わたしは後ろから誰かに小突かれでもしたように、早くも下へ身をおどらしていた。塀の高さは十四、五尺ほどあった。わたしは両足が地面に届いた拍子に、はずみがあんまり強すぎたので、体を支えきれなかった。わたしはどさりと倒れて、一瞬間、気が遠くなった。やがて我に返ったわたしは、眼をあけないのに、すぐそばにジナイーダがいることがわかった。
「可愛いわたしの坊や」と彼女は、わたしの上にかがみ込みながら言っていた。その声には千々に乱れた情愛の響きがあった。――「どうしてあんたは、こんなことができたの、どうしてわたしの言うことなんか、きく気になったの。……わたしだって、こんなに愛してるのに。……さ、お起き」
 彼女の胸は、わたしの胸のすぐ側で息づき、その両手は、わたしの頭を撫でていた。すると、突然――その時なんということが、わたしの身に起ったのだろう! 彼女の柔らかなすがすがしい唇が、わたしの顔じゅうを、キスでおおい始めたのだ。……やがては、わたしの唇にも触れたのだ。

 大昔に武田鉄矢がトラックに飛び出して「僕は死にまっしぇん!」とやったドラマがあったが、それより100年以上も前にツルゲーネフはこれだけの感動純愛シーンを描いていたわけだ。このシーンを読むたび僕は胸やら股間やらが熱くなり思わず隣の家の塀によじ登りたくなってくるのだ。見事登り終えたとしても下で待ってるのはたぶん美少女ではなくお巡りさんだろうが。


 ジナイーダたんの意外な恋のお相手、そして悲しい別れと最後まで見せ場はたっぷりあって退屈するヒマはない。19世紀ロシアの世界観を掴むのに多少苦労するかもしれないが、ジナイーダたんが登場してしまえば後は彼女のあまりの可愛さにするすると読めてしまうこと間違い無しだ。小悪魔萌えな男子はもちろんだが、ピュアな少年の恋心萌え〜な女子にぜひ読んでもらいたい作品。ロシア文学だろうが何だろうが萌えたもん勝ち、そうは思わないか諸君?

萌えパワー読みやすさ総合おすすめ度 まとめ
☆☆☆★ ☆☆☆☆☆☆★ロシアンガール侮りがたし

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