第参回「痴人の愛」
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ナオミはソオファへ仰向けにねころんで、薔薇の花を持ちながら、それを頻りに唇へあてていじくっていたかと思うと、そのとき不意に、「ねえ、譲治さん?」と、そう云って、両手をひろげて、その花の代りに私の首を抱きしめました。 谷崎潤一郎こそは日本文学史上最狂の変態マゾヒスト小説家であり、「痴人の愛」はおよそこの世に出版されている古今東西全ての小説の中で僕が個人的にいちばん好きな小説である。史上もっとも文章の優れた萌え小説と言ってしまってもいい。僕がこの変態小説にどれほど影響を受けているかは、僕の妄想日記に登場する女性像を見てもらえれば一目瞭然だろう。そう、男を惑わし操る妖婦・ナオミこそは僕の永遠の理想美少女なのだ。主人公・譲治の言葉を借りるなら、僕は、ナオミを、崇拝しているのである。どんなものでも買ってやるし、月給どころかそれこそ人生全てを捧げたってかまわない。こんなカワイイ小悪魔になら、とり殺されるのも本望というものだ。 さて、文学史の教科書に堂々と名を連ねる「痴人の愛」をつかまえて僕は「萌え小説」などと言ったが、実にこれはほとんどギャグと紙一重のとんでもないアホな内容の小説なのだ。どれくらいアホなことをやっているかというと、例えば終盤のこのシーン。譲治は風呂場でナオミの度重なる挑発を受け、しまいにトチ狂ってしまう。 私は彼女の足下に身を投げ、跪いて云いました。 俺を馬にしてくれ、である。こんなアホなシーンを「文学」としての品格を崩さず描写できるのは後にも先にも谷崎潤一郎ただ一人だけだろう。僕もいつかはこんなヘンタイ萌え萌えシーンを、「文学」として書けるようになりたいものである。 宮部みゆきや村上春樹あたりは愛読していても、「明治文学」だとかいう肩書きの小難しそうなイメージだけで敬遠して読まない人はたぶん多いのだろうが、そういうのは実にもったいないと僕は思う。小難しい読み方なんか暇な研究者にでも任せておけばいいじゃないか。本来、小説なんか自分の好きなように読んでかまわないもののはずだ。難しいところ、つまんないところなんか豪快に読み飛ばしちまえばいい。読解なんかできなくていい、しようなんて考えなくていい。登場人物の美少女に萌えるために読んだっていいじゃないか。ブンガクでオナニーしたっていいじゃないか!
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