I talk to the wind
風に語りかけても

My words are all carried away
言葉はどこかへ吹き流されてゆく

I talk to the wind
風に語りかけても

The wind does not hear
風はそれを聞いてはくれない

The wind cannot hear.
風には聞こえはしないのだ
“Talk to the wind" King Crimson

■第四章(1998.October)1■

 鎌倉でのデート以来、僕は寝ても覚めてもミユキのことばかりを考えるようになっていた。大学では講義も聞かずに虚空を見つめ、バイトでは注文を間違え皿を割り、日記の更新では誤字脱字を連発した。
 僕はWindows98搭載の新PC購入を目指して貯めていた口座から五万円を下ろして洋服を買い、美容院に行き、それからダイエットを始めた。今更そんなことをしてどうにかなるものではないことはわかっていたが、何かせずにはいられなかったのだ。本屋では「東京ウォーカー」と「FINEBOYS」を買うついでに手話の入門書まで買ってしまった。手話で格好いいところを見せてモテようだなんて、これじゃまるでクボタと発想が同じじゃないか。さすがにやりすぎだと自分でも気づいてはいたが、これが将来いつどういう形で役に立つかもわからない。勉強しておいて損はない、と僕は自分に言い聞かせておいた。

 僕とミユキは一日一通ペースでメールを交わす関係になっていた。といっても別に愛を語り合っているわけではもちろんなく、ただ「あの漫画読んだ?」とかなんとか送って「面白かった」と返って来る、その程度のものだ。でも内容はこの際問題ではなかった。ミユキと常に連絡を取り合える環境を維持できる、それが一番重要なことだったからだ。大学から帰ってきてメールチェックをして、ミユキから返事が届いているのを確認するその瞬間が、いまや僕の一日でもっとも幸福な時間となっていた。
 ミユキの働いている古本屋の場所も教えてもらえたので、僕はわざわざ電車に乗って野方まで、片道一時間半かけてミユキに会いに訪れたりもした。平日の夕方だったので客は誰もおらず、ミユキはレジの奥に座って暇そうに「バタアシ金魚」を読んでいた。なるほど、ミユキが漫画博士になれた秘訣がなんとなく理解できた気がした。なんて羨ましすぎるバイトだろう。タダ働きでもいいから今すぐ代わって欲しいくらいだった。
 ミユキは僕の視線に気がつくと椅子から飛び上がって驚いた。僕は「大学の帰りついでに寄ってみただけだから」と適当な嘘をついた。僕の大学が野方なんて帰り道でもなんでもない場所にあるのはもちろん、言うまでもないことだろう。僕はミユキの手から漫画を何冊か買っていき、それについての感想をその日のうちにメールで送った。ミユキからは「ユキオ君のせいで、もうバイト中油断できなくなっちゃったよ〜」と返事が来た。もう来るな、とは書いていなかったので「また来て」という意味に僕は脳内で都合良く解釈しておいた。

 ミユキと文通を重ねてみて、新たにわかったこともいくつかあった。まずミユキは「古本屋に入ってくるコミックスを片っ端から読む」という方法に頼りすぎているせいで、一昔前のメジャー誌掲載漫画については鬼のような知識を有する代わりにまだコミックスの出揃っていない新作や、コミックスがなかなか中古で出まわらないレア本、そもそも出版部数自体が少ないマイナー出版社のマイナー漫画などの話題には弱かった。試しに先月出たばかりの「ヘルシング」一巻を貸してみるとものすごく喜んでくれたので、以後僕の漫画の購入基準は「ミユキがまだ読んでいなさそうな新刊」へと変化することになった。
 またミユキは自分の感想や意見を言語化するのはあまり得意ではないようだった。だからいつも長文によって作品のテーマやらメッセージやらを語るのは僕で、ミユキはそれについて「まさにその通り」だとか「わたしは逆にこう思った」だとか逐一レスをつける役だった。僕らが漫画に求める要素は微妙に違っていて、僕はどちらかというと文学性を重視しミユキは娯楽性を重視していた。僕はどちらかといえば少女漫画が好きで、ミユキは硬派なアクション漫画が好きだった。時々意見が噛み合わず論争になることもあったが、それはそれでお互い楽しむことができた。議論がメールで収まらなくなると僕らはたまに新宿で落ち合い、ファーストフード店で続きを展開した。ミユキは僕と正反対で書くより喋るほうが得意なタイプだったので、口頭での論戦になると僕が負かされることも多々あった。でも勝敗なんて僕にはどうでもよかったのだ。ミユキと一緒に喋りあっていられさえするならば。

 一時期はあれほど熱心に通っていたオフ会にも僕はめっきり行かなくなっていた。行く必要がなくなったからだ。僕はもうミユキ以外の何物にも興味がなくなっていた。
 アオヤマがほとんど毎週末ごとにこのオフに行こうあのオフに行こうと誘いかけてはきたが、僕はのらりくらりとかわし続けていた。アオヤマとサシで遊ぶのならともかく、ミユキ以外の女の子が来るオフになんてもう出たくなかったのだ。だいたいそんな無節操に複数の女の子と遊んでいたら、誠意のない男だとミユキに誤解されてしまう。その旨をきっちり説明してみたのだが、アオヤマは納得した表情を見せてはくれなかった。

「女の子と遊ぶのが目的じゃなきゃいいんだろ? じゃあさ、このオフだけでいいから行こうよ。きっと面白いよ」

 アオヤマが口にしたメールと同じものがちょうど僕の元にも届いていた。差出人の欄には「『細木の部屋』管理人:細木」と書かれていた。
 「評価のことで話があるので来ませんか?」という内容だった。

→次へ
←表紙に戻る