Only you can make this world seem right
君だけがこの世界を正しく作り変えられる

Only you can make the darkness bright
君だけが暗闇に光を燈すことができるんだ

Only you and you alone can thrill me like you do
君だけが僕をぞくぞくさせてくれるから

and fill my heart with love for only you.
君だけへの愛でこの心は満たされてゆくよ
“Only you" The Platters

■第三章(1998.October)6■

 時計の針は三時を指していた。まだ時間があったので予定を少し変更し、鎌倉文学館に寄っていくことにした。長谷寺からなら歩いて十五分程度の距離だったし、ミユキも賛成してくれた。
 長谷駅〜大仏間のルートから道を一本逸れただけで、観光客の姿がまったく見えなくなった。住宅地の真ん中をぶらぶら歩きながら僕らはしばらく文学の難しい話をしたり最近読んだ本の話をしたりしていたが、そこから話はなぜか「好きなホームページについて」に転がっていった。ミユキは小説的な文体の日記を書くサイトが好みのようで、特に「クリアラバーソウル」「ヘクサゴン」の大ファンだと目を輝かせながら言った。
「この人たちはいつかすごい出世すると思うな」
「出世って? 例えば?」
「例えば…うーん、小説家とか」
「まさかぁ」
 僕にとって小説家という職業は雲の上の職業であり、憧れを口にするのも恥ずかしいことという意識があった。このとき気のない返事を返した僕がいかに蒙昧でいかにミユキが慧眼であったかを思い知らされるのは、もう少し先の話になる。
「こういう個人のホームページの文章が本屋に次々並ぶ日が、いつか必ず来ると思う。だってわたしは買うもの。もし本屋で好きなページの名前見つけたら」
「そりゃあまあ、そうなったらいいなとは思うけどさ」
「なるよ。絶対なる」ミユキは力強く言った。「ユキオ君の本は絶対買うからね。頑張って出してね」
「はいはい」と僕は適当に返事しておいた。
 後に僕はこの約束を果たしたが、ミユキのほうが約束を守らなかった。




 緑の茂る小道からトンネルを抜けうねるような坂道を登って行くと、高台の上に青い屋根の瀟洒な洋館があった。外から見ると小さく感じるが、中は三階建てで意外に広い。古いミステリ小説のような雰囲気の洋室の中に夏目漱石や芥川龍之介、川端康成といった鎌倉ゆかりの文豪の生原稿や使っていた文房具などが並べられていた。ミユキは少なくとも観音よりは熱心にそれらの展示品を眺めているようだった。ここを選んだのは正解だったな、と僕は心の中で自画自賛した。念のために長谷周辺の観光スポットを徹底的に洗い出しておいて本当に良かった。ちょうど先週クボタから聞いた「相手の好みに合わせて予定を組み立てる」ことの重要性を、僕は今まさに身体で学んでいるところだった。

 館を一周した後で僕らは正門前の階段を降りて庭園に出た。テニスコート二面分くらいの緩やかな傾斜地に良く手入れされた芝が広がっていた。芝生の奥には段々に並べて植えられた小さな薔薇園があり、園を取り囲む木々の隙間からは長谷の市街と遠い水平線が白く霞んでいた。ミユキは薔薇園の入り口のアーチに気づくと、まるで首輪を外してもらった仔犬のように一目散に駆けて行った。あまり知名度があるとは言い難い場所のせいか、庭には僕とミユキ以外に観光客は一人もいなかった。
 僕は芝生に腰掛け、薔薇園の中を蜜蜂のように飛びまわるミユキを見ていた。ミユキは目を閉じて鼻を突き出しまるで口付けを求めるような仕草で、赤や黄色や白やピンクそれぞれの種類の花弁の匂いを楽しんでいた。丘の向こうに覗いた海が陽光を乱反射させ、瞳の中で薔薇が眩く煌いて見えた。
 ミユキが僕の視線に気づき、背の低い薔薇の間から背伸びして顔を出し、満面の笑みを浮かべて手を振ってきた。僕も合わせて手を振り返した。僕は自分がカメラを持って来なかったことを後悔した。僕に写真の心得はなかったが、でもこれだけは確信できた。今日この瞬間ほどのシャッター・チャンスが僕の前に現れることは、きっともう二度とない。だからせめてめいっぱい瞳を見開いて、僕は頭の中で何枚もミユキを写し撮りその笑顔を記憶のアルバムに刻んだ。
 僕の思い出すミユキがいつも笑顔で手を振っているのは、このときの印象があまりにも強すぎるせいなのかもしれない。


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