Only you can make this world seem right
君だけがこの世界を正しく作り変えられる

Only you can make the darkness bright
君だけが暗闇に光を燈すことができるんだ

Only you and you alone can thrill me like you do
君だけが僕をぞくぞくさせてくれるから

and fill my heart with love for only you.
君だけへの愛でこの心は満たされてゆくよ
“Only you" The Platters

■第三章(1998.October)5■

 大仏の高徳院ときたら観音の長谷寺、というのは鎌倉観光の基本中の基本なので、素直に踏襲することにした。 どうせ帰り道の途中だし、例のごとく他に気のきいた面白スポットが用意できているわけでもなかったからだ。
 ただ観音は大仏ほど見た目のインパクトがあるわけではなく、そのくせ写真撮影も禁止されていてできない。辿りつくのに階段を登らされるのも個人的には好きではなかった。 さんざん歩かされてやっと見れた観音は大したことがなかったと、ミユキに失望されることを僕は恐れた。

 だが僕のその心配は意外な形で杞憂に終わった。ミユキは長谷寺の広い庭園のところどころに咲く萩や杜鵑草、金木犀といった秋の花々が気に入ったようで、カメラを握り締めたまま一人であちこち走り回りだした。結構な距離を歩いてきたというのに、ミユキからは疲労の気配をまるで感じなかった。むしろどんどん元気になっていっているようだった。僕のほうが先に音を上げ格好悪いところを見せないよう、気を引き締めておく必要がありそうだった。
「フィルムの残りが少なくなっちゃった」
 ミユキがカメラに視線を落としたまま帰ってきた。すでに満足そうな表情だったが、せっかくなので観音堂まで頑張って登ってみることにした。
 照りつける日差しが暑くなってきたので、羽織っていた長袖のシャツを脱ぎ鞄に放りこんだ。ここでへばってミユキに遅れを取るわけにはいかない。
「花が好きなんだ?」
 僕は呼吸が荒くなっているのを悟られないよう、いかにも余裕といった口調で訊ねた。
「うん」ミユキはリズミカルに階段を跳ねながら答えた。「花は、それ自体が言葉だから」
「え?」
 意味がよくわからなかったので、僕は立ち止まってもう一度訊ねた。
「それって、花言葉とかそういうこと?」
「まあそんなようなものかな」とミユキが笑った。ミユキは立ち止まらずそのまま先へ進んでいったので、僕は慌てて階段を駆け上がった。
「こないだ、初めてスノードロップの花を偶然ネットで見たよ」
 僕は先を歩くミユキの揺れる尻をじっと見上げながら言った。もちろん偶然見かけたわけはない、今日の話題作りのためにわざわざ検索して調べてきたのだ。スノードロップ、という単語が聞こえたあたりでミユキが急に立ち止まった。
「…わたしのホームページの悪口の話じゃないよね?」
 頬を赤らめたミユキが僕を睨んだ。
「違う違う、そんな意味じゃないよ」
 僕は大慌てで手を振った。「ただ綺麗な花だよねって、そう言いたかっただけ」
「ほんと?」
 ミユキは疑いの細目を続けたまま言った。どうやらホームページのことに触れるのはNGのようだ。今後気をつけねば。




 階段を上りきった先にようやく観音堂があった。薄暗い堂内は相変わらず外人でいっぱいだったが、誰も口を聞いていなかったので静かだった。空気が冷たくしんと張り詰めていた。
 思った通り、ミユキは観音にはあまり興味を示さなかった。一分ほどはおとなしく見上げていたが、すぐに飽きてしまったらしく周りをきょろきょろとやりだした。 僕も観音は四回目でいいかげん飽きていたので、ミユキに「出ようか」と小声で喋りかけて外に出た。ミユキもおとなしく後をついてきた。
 展望台のそばに休憩所があったので、休んでいくことにした。ミユキが「良縁厄除けだんご」というネーミングセンスを気に入ったようだったので、それとお茶のセットを二つ頼んだ。財布を取り出そうとしたところをミユキに止められ、二人分の会計を済まされてしまった。たかだか350円のことで押し問答するのも面倒だったので、ありがたく奢られておくことにした。海の見える窓際の席を選び、久しぶりに腰を下ろすと今までやせ我慢していた疲れが一気に噴き出してきて、僕は猫背の背中をさらに丸めて縮こまった。
 僕らは無言のままお茶を啜り、ガラス窓のすぐ外に続いている由比ヶ浜の海岸線を眺めていた。千年前にもこうして同じ場所から同じ景色を楽しんだ人間がいたのだと思うと、それだけで僕は感慨深さに胸が震えるのだが。無表情に傍らに佇むミユキがいま何を考え何に思いを馳せているのかまでは、僕にはわからなかった。

「十勝のど田舎に住んでた中学生の頃、マイナス十何度って猛吹雪が何日も続いた冬があってね」
 ミユキは食べ終えた団子の串をくるくる回しながらつぶやいた。
「庭に壁みたいに積もった雪を苦労して全部除けたらね、スノードロップの花だけが枯れずに花をつけたままだったの。まるで何事もなかったかのように。それ以来ね、わたしはスノードロップの強さに憧れてるんだ。一人暗いところに閉じ込められて、寒さに震えて、誰の声も聞こえなくなるようなことがあっても、スノードロップみたいにしぶとく生きていけたらなって。そう思って、ホームページの名前にもしてるんだ」
 ミユキは両手に包み持った茶碗を一気に傾けた。そして立ち上がり、「そろそろ行こう? ユキオ君」と言った。

 君は一人にはならないよ。なぜなら、僕がずっとそばにいるから。
 そんな臭い台詞が頭の中に浮かんだが、もちろん口には出せなかった。出せるわけがない。
 それともクボタくらいのレベルになればさらっと言えてしまうものなのだろうか? 一度じっくり聞いてみたいものだ。


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