Walk on through the wind
風の中を歩いていくんだ

Walk on through the rain
雨の中を歩いていくんだ

Though your dreams be tossed and blown.
たとえ君のその夢が嵐に吹き揺らされようとも
"You'll never walk alone" Gerry & The Pacemakers

■最終章(1999.March)3■

 たかだか北海道の片隅の片隅に過ぎない函館から札幌へ移動するのに、七時間だ。飛行機なら同じ時間でハワイまで行けてしまうことを考えるとさすがにだんだん嫌気が差してきた。あまりの退屈さに耐えられなくなってきた僕は長万部駅で乗りかえる際に売店にあった赤川次郎と松本清張のミステリを買い、すぐに読み終わらないようじっくりと時間をかけて読んだ。どちらも僕の好きな作家ではなかったし内容も特に面白いとは思えなかったが、とりあえず当面の退屈だけは凌げた。余った時間でさすがに二度目を読み返す気にはならなかったので、そこからはずっと窓の外に延々と続く雪に覆われた田園の風景をぼんやり眺め続けた。見ていても面白いものではなかったが、目を瞑っているよりは幾分ましだった。目を瞑っているとどうしてもろくでもないことを考え始めてしまう。

 札幌から帯広までの路線図は複雑に入り組んでいて最短ルートの確認が難しかったので、とうとう僕は鈍行縛りをあきらめ窓口に寄って「スーパーおおぞら」の特急券を買った。 今から鈍行では今日中に帯広に着くのが難しそうだったし、かといって札幌で一泊するにはまた時間を潰したり宿を探したりするのが面倒だったからだ。
 特急の発車時刻まで四十分ほど余裕があったので、札幌駅の構内のレストランで海鮮丼を食べ本屋で新たに小説を六冊ほど買い込んだ。レジで四千円を取り出したところで財布の中の千円札が切れたので、ちょうどこの旅でここまでに使った金が三万円に達したことが判明した。
 結局、飛行機を使うより高くついてしまった。三日もかけてわざわざ鈍行を乗り継いでおいて金の節約にすらならなかったなんて、僕はこんなところでいったい何をやっているのか。それを考えたら無性におかしくなってきて、僕は背中を震わせて笑い出した。本屋の女店員が眉をひそめ、釣銭を上から落とすようにして僕によこした。

 特急スーパーおおぞらは座席シートも今までの鈍行のものとは比べ物にならないくらい広く快適で、少しうとうとしていたらほんの二時間でもう帯広駅に着いてしまった。さすがは特急、高い金を払っただけのことはある素晴らしい機動力だった。最初から特急を使って来ればよかったのではないかという後悔が脳裏をよぎったが、それ以上は深く考えないことにした。
 急げば墓まで行って帰って来れなくもない微妙な時間帯ではあったが、天気があまり良くなかったので明日に見送ることにした。雪原に迷い込んだまま夜を迎え吹雪やら熊やらに襲われてしまったら、冗談抜きで命に関わる。死ぬなら死ぬでもまあいいが、遭難死なんて格好悪い最後を迎えるのだけは御免だった。




 帯広駅前の安宿で目を覚ますと、曇りガラスの窓の外に何か無数の影がちらちら映っているのが見えた。
 外の様子を確認しようと窓を開けた瞬間、心臓を射抜かれるような雪風が飛び込んできたので僕は慌てて窓を閉め直し、リモコンで部屋の暖房の温度を上げた。テレビをつけると今日の帯広の予想気温はマイナス四度、という恐ろしい言葉が聞こえてきた。
 僕は全身に貼った使い捨てカイロの上に持参してきた服を二枚重ね、その上に函館で買ったセーターを着込み、さらにコートを羽織ってマフラーを巻いた。服が重すぎてすぐ肩が凝ってきたが、凍死を回避するためには仕方ない。マイナス四度の雪の中を墓参りなんて、都会育ちの僕にとってはちょっとしたサバイバルゲームみたいなものだ。それなりの装備でなければ生きて帰ってくることさえ危うい。

 小さな商店街の一角にあった金物屋のような店でビニール傘を買おうとしたら、店番と思われるお婆さんに背中から声をかけられた。
「兄ちゃん、そんな安物じゃ風ですぐちゃけちまうよ。悪いこた言わね、こっちの大きい方にしれ。金なら千円でいがべや」
 いがべや、という方言が良くわからなかったが「千円で売る」という意味だろうと解釈し僕は千円札を一枚手渡した。受け取ってみると見た目以上に布と骨のしっかりした、どう考えても千円では買えないはずの立派な傘だったので驚いた。僕はお婆さんに向かって深く頭を下げた。人の優しさが今は胸に深く染みた。
「おんや? 兄ちゃん、そのマフラー」
 お婆さんが僕の首元を覗き込んで言った。
「そのフリフリんとこの糸、解れけかけてるんでないかい? わしで良ければちょっくら繕ってやろうか?」
 僕はマフラーを一度首から外し、フリンジの部分を慎重に選り分けて確認してみた。確かにお婆さんの言うとおり、端のところに小さな解れがあった。まだ目立ちはしないが、放っておけばどんどん糸が伸びて形が崩れていってしまうことだろう。僕は少し迷ったが、「家に戻ってから直します。親切にどうもありがとうございました」と頭を下げて立ち去った。



『無理だよ。来年にはきっとすぐ、解けちゃうよ』
 去年のクリスマスの日、ミユキは恥ずかしそうに僕にそう言った。

 本当に君の言ったとおりになったよ。

 僕は鉛色の空を見上げ微笑んだ。そして寒さに負けぬよう、再び首元に巻きつけたミユキのマフラーをしっかりと締め直した。
 大丈夫、気をつけて使えばこれ以上は解れない。せめてこの旅の間はこのままで、大事に使っていこう。
 なぜならこの解れすらもかけがえのない、君の思い出の残り火なのだから。


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