Walk on through the wind
風の中を歩いていくんだ

Walk on through the rain
雨の中を歩いていくんだ

Though your dreams be tossed and blown.
たとえ君のその夢が嵐に吹き揺らされようとも
"You'll never walk alone" Gerry & The Pacemakers

■最終章(1999.March)2■

 目が覚めると朝九時だった。
 チェックアウトは十時だったので慌ててシャワーを浴び歯を磨き、着替えてフロントに走った。濡れたままの髪の毛から落ちる水滴がコートの襟を濡らしているのに気がついて、僕は自分のあまりの格好悪さにまた苦笑した。延長料金なんてたいした額でもあるまい、金なんて惜しくないと本気で言うのなら時間など気にせずゆっくり出てくれば良かったのに。結局僕はこんなはした金を惜しむ小市民性からさえ解脱できない、小さい男なのだ。こんな僕に死ぬだのなんだのといった大袈裟なこと、できるわけがない。
 でもたぶんこうやって見苦しい生き恥を晒すだけ晒しておくことも、僕にとってはある種の感覚のリハビリにはなっているのだろう。いつまでもこんな生きているのか死んでいるのかわからないような状態のままでいるわけにはいかない。まずは慣れることだ。アオヤマにクボタにミユキ、僕の好きだった人たちがもう誰一人存在しないこの世界への興味を、もう一度取り戻すことだ。

 朝のうちに大館から青森まで移動し、青森駅からタクシーでフェリーターミナルに向かった。青春18きっぷマニアならここは四十分かけて歩くのが基本だそうだが、僕は別に節約旅行をしているわけではないので堂々とタクシーを使った。いくら時間を気にしない旅とはいえ、歩いて移動するのは嫌だった。これはピクニックではないのだ。

 フェリーが動き出した後で、僕は船内の売店を覗きサンドイッチを購入しエントランスホールでつまんで食べた。最初の一口が喉を通り過ぎた後で胃がぎゅるぎゅると空吹かししたエンジンのような音で回転を始め、その音で僕はこれが一日半ぶりの食べ物だったことをようやく思い出した。旅の準備に気を取られるあまり、飯を食うという人間としての基本的な習慣そのものをすっかり忘れてしまっていたのだ。特に食欲はなかったのだが食べなければ旅を続けられないと判断し、仕方なくもう一度売店に戻っておにぎりやお菓子など色々買い込んで無理やりに胃に全てを流し込んだ。食べ終えると胸焼けと船酔いのダブルパンチで気分が悪くなってきたので、僕は階段を上りデッキに出た。
 さすがに真冬の津軽海峡の真ん中でわざわざ海風を浴びに出てくる馬鹿は僕くらいのようで、広々としたデッキの上には誰もいなかった。かもめのような鳴き声の海鳥が船の上を偵察するようにぐるぐる飛び回った後、まるで僕に見切りをつけたようにどこかに飛び去っていった。僕は大海原の向こうから少しずつ近づいてくる蝦夷の大地を眺めながら、誰も見ていないのをいいことに少しだけ泣いた。このどこまでも続く灰色の海が、今の僕の心の風景にあまりにも良く似すぎていたから。


 函館フェリーターミナルに降りた時点で、時計は夕方四時半を回っていた。
 同じ北海道である函館にさえ着いてしまえば後は帯広なんてもう目と鼻の先だろう、なんて気楽に考えていたのだが、路線図を見てそれが大甘だったことを思い知らされた。札幌に出るのでさえ鈍行を使うと乗り継ぎ三回で約60駅区間、移動時間にして推定で約七時間。今日これ以上の移動は早々にあきらめ、夕食には少し早かったが駅前で名物と言われるいかめしを食べた。ようやくありつけたまともな食事というせいもあるのだろうが、五臓六腑に染み渡るような美味さだった。そういえば食べ物を美味いと感じるのも本当に久しぶりだった。

 時間が余ってしまったので記念に五稜郭にでも行ってみようかなんて考えが頭をよぎったが、そんな気分でもなかったし何より寒さに体力を奪われるのが怖かったのでやめておいた。
 空は晴れていたのだが、風の強い日だった。体感気温はおそらく氷点下に届いていることだろう。事前に予想していたほど市街地に雪は積もっていなかったが、がちがちに凍った残雪が日陰の路地をアメーバのように覆い尽くしており、慣れないうちはつるつる滑って何度も転びかけた。
 陽が落ちるにつれて寒さが洒落にならなくなってきたので、僕は函館駅前のデパートで厚手のセーターを一枚買い足し、薬局で使い捨てカイロを大量に買った。薬局の前でたまたま目についた手頃そうなビジネスホテルに入り、部屋に着くなりすぐに湯船にお湯を張って飛び込んだ。凍りかけていた全身の細胞が少しずつ息を吹き返していくのがわかった。慣れない長旅の疲労に刈り取られそうになる意識を懸命に繋ぎ止めるようにしてしばらく身体を温めた後、ふらふらと風呂を出てろくに身体も拭かないままベッドに転がり布団をかけた瞬間に眠りに落ちた。


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