I'll take your part, when darkness comes 暗闇が訪れるときは、僕が代わりに引き受けよう And pain is all around 痛みが君を引き裂こうとするときは Like a bridge over troubled water 荒海に投げかける橋のように I will lay me down. 僕がこの身を横たえ君の支えとなろう “Bridge over troubled water" Simon & Garfunkel |
■第十六章(1999.February)7■ 何分くらいそうしていたのか、正確な時間はちょっと思い出せない。それだけこちらも無我夢中だったのだ。僕のマフラーが涙でぐっしょりと重くなるくらいミユキが泣きに泣いて、 二組のカップルが後ろを通りすぎて行った後にようやく僕らは身体を離し、また手を繋いで歩き出した。僕らは一言も言葉を喋らなかったけれど、僕にはわかった。僕らの心は、いまようやく本当の意味で繋がったのだと。 だがここで一つ、予想外の小さなアクシデントが起きた。 よりにもよって階段を降りる途中で、ミユキがポケットから取り出した補聴器を、落とした。 「あっ」とミユキが声を上げたときにはすでにもう補聴器は階段の角で大きくワンバウンドし、後は小石が転がるように一直線に下に落ちていった。ミユキが鼠を追う猫のようなスピードで階段を駆け下り、運良く踊り場で動きを止めた補聴器を拾ってすぐに耳にかけた。 少し遅れて踊り場まで駆け降りた僕は息を弾ませながら、 「どう、聞こえてる? 壊れてない?」とミユキに訊ねた。 ミユキは座りこんだままの姿勢で耳元をぐりぐりといじり続けた。 「ちょっとボリューム調整がおかしくなってるっぽいけど。とりあえず、聞こえる」 「よかった」 僕はほっと胸を撫で下ろした。「ごめん、僕がポケットなんて入れたせいだ。修理でも買い替えでも、全額弁償するから」 「やだ、やめてよ」 ミユキが慌てて手を振った。「わたしが手を滑らせただけじゃない。ユキオ君のせいじゃないよ、そんな気にしないで」 「気にするよ」 僕は膝を落としてミユキの耳を覗きこんだ。落としたのはミユキかもしれないが、そのミユキの過失を発生させる原因を作ったのは紛れもなく僕だ。気にしないでいられるわけがなかった。 「わたしなら、大丈夫だよ」ミユキは優しく微笑んだ。 「もし壊れてたって平気。もう大丈夫。もう怖くない。今のわたしには、ユキオ君がいるから」 「でも、それじゃ」 この期に及んでけちな金勘定の心配に気を取られていた僕にミユキは擦り寄るように接近し、 「ねえ、そんなに気にするならじゃあ、いま責任取って」と言った。 「責任?」 「………してくれたら、許してあげるよ」 ミユキの言葉に重なるように強い風が足下から吹き上げ、踊り場に積もっていた落ち葉と砂を巻き上げた。枯れ木の枝が上空でがさがさと擦れあう音が静寂の中に響いた。 ミユキが首を少し上げ、目を閉じた。真っ赤な頬が痙攣するようにふるふると震えていた。 僕は両手を伸ばし、その微熱を帯びた柔らかな頬に触れた。そしてその震えが収まってゆく速度に合わせるように、ゆっくりと唇を近づけた。接触の瞬間に魂が吸い込まれるような感覚が脊髄を走り、僕の意識はコーヒーに落としたミルクポーションのようにミユキの意識と溶け合いひとつの渦となりやがて拡散を始めた。 眠りに落ちる間際に似たまどろみが舞台の幕のようにするすると降りてきて、ミユキの長い睫毛を見つめていた僕の瞼を閉ざした。 ドラマでも漫画でも皆どうして目を瞑るんだろう、と常々疑問に思っていたのだが、自分の番を迎えてみてやっとその理由がわかった気がした。目を瞑るのではない。開けていられないのだ。 やがてミユキは僕からそっと唇を離し苦しそうに大きく息を吸い込むと、まだ鼻と鼻がくっつくくらいの至近距離で照れくさそうに微笑んだ。僕も微笑み返そうと思ったが、唇が動かなかった。僕の唇は僕の理性から独立した意思を持って、もう一度ミユキに触れることを要求していた。その要求に従うべきか悩んでいるうちにミユキが立ち上がってしまったので、僕は唇をむずむずと動かしながら渋々立ち上がった。 ミユキは僕に片手を差し出し、 「そろそろ行こう、ユキオ君?」と言った。 「うん」 僕はミユキの冷たい手を握った。そして僕らの前に続く長い階段を、一歩ずつゆっくりと降りはじめた。 それから僕らは元町の大通りを歩きながら石川町の駅に戻り電車で桜木町に出て、ランドマークタワーの展望台に登りショッピングモールを散策した。観覧車はまだリニューアルオープン前で乗ることはできなかったが、でも真下から見上げているだけで充分楽しかった。 僕らは歩きながらこれからのことをたくさんたくさん話しあった。これから行ってみたい場所、これからやってみたい遊び、これから観たい映画、これから読みたい本。どれだけ話しても足りなかった。 僕の思い描く未来と、ミユキの思い描く未来を重ね合うために。もっともっとたくさんのことを話し合う必要があった。それにはきっと長い長い時間がかかることだろう、時には意見がぶつかりあうこともあるだろう。ミユキと僕を隔てていた壁だって完全に取り払われたわけじゃない。解決すべき問題はまだ山のようにあった。何もかも楽しいことだらけ、というわけにはもちろんいかない。 でも僕はそんな困難をすら待ち遠しく思えた。辛いことも悲しいこともミユキと一緒になら軽く乗り越えていける、そんな根拠のない自信がいま僕の胸には満ち溢れていた。これからは僕がミユキを守ってみせる。僕がミユキを支えてみせる。もう二度と僕の前では泣かせない。そんな気障なことを、心に誓ってしまえるほどに。 夕方六時にJR横浜駅の東海道線ホームでミユキを見送り、別れ際に一度だけミユキを抱きしめ、短いキスをした。 それが僕の人生で二度目の、そしてミユキとの最後のキスになった。 それから三日後の晩。 夕飯を済ませ部屋に戻り漫画本を手に取りかけた僕に、一本の電話が入った。ディスプレイには発信者「ミユキ」と表示されていたので、僕は喜び勇んで携帯電話の通話ボタンを押した。 でも電話の向こうにいたのはミユキではなかった。 相手はミユキの姉だと名乗り、そして――――僕に、絶望の一言を告げた。 ミユキが、死んだと。 |