I'll take your part, when darkness comes
暗闇が訪れるときは、僕が代わりに引き受けよう

And pain is all around
痛みが君を引き裂こうとするときは

Like a bridge over troubled water
荒海に投げかける橋のように

I will lay me down.
僕がこの身を横たえ君の支えとなろう
“Bridge over troubled water" Simon & Garfunkel

■第十六章(1999.February)6■

「変なこと言うようだけど…あ、愛人みたいな関係じゃ、だめかな?」

 ミユキは顔を真っ赤にして、小声でつぶやいた。
「べ、べつにいやらしい意味じゃなくてね。なんていうか、仮契約っていうのかな。ユキオ君が他にもっと良い女の子を見つけるまでのつなぎっていうか、代役っていうか…」
「嫌だ」僕はミユキの言葉を遮るように言った。
「僕は君が好きなんだ。君だから恋人にしたいと思うんだ。愛人とか仮契約とかつなぎとか代役とか、そんなわけのわかんない関係になるくらいなら友達のほうがまだましだよ」
「だ、だって」
 自分でも言っていることがおかしいという自覚はあるのだろう、ミユキは慌てた声で言った。
「いつかユキオ君は、わたしのことを重荷に思う日が来るよ。わたしを置いてどこか遠いところに行ってしまう日が来る」
 話しながらミユキはまた去年のクリスマスの時のように、少しずつ背中を丸め始めた。
「その日が来ることはもう覚悟しているから、たぶん耐えられる。でも、その日を想像する今が耐えられない。こんなつらいこと背負うくらいなら、ユキオ君にまでそれを背負わせるくらいなら、いっそ…」
 ミユキの言葉とともに海風が止み、世界から一瞬音が消えた。ミユキは僕に向けてまっすぐに頭を下げていた。ずっと遠くの海の向こうで船の汽笛らしき低音が鳴っているのがかすかに聞こえた。
 
 結局、ここに戻ってきてしまうのだ。僕とミユキの間に聳え立つ、「健常者」と「障害者」を分かつ壁。去年の最初の告白のときは僕はその壁の存在自体に気づかずにそのまま体当たりしようとし、見事に弾き返されてしまった。自分の存在全てを拒否された気分になって、何もかもを投げ出して逃げてしまった。
 でも、今はあの時とは違う。僕はもう壁の向こうで震えて泣いている、ミユキの本当の心を覗いてしまったのだ。だから、もう逃げない。壁があるならそんなもの何度でもぶつかって、ぶっ壊してやるまでだ。
 
「僕はどこにも行かない。約束する。ずっと君のそばにいる」
 僕はミユキの目を正面から見据えて言った。
 ミユキは肩を震わせて僕から目を逸らし、「だ、だめだよ」と言った。泣き崩れるのを必死で我慢している、そんな表情だった。
「いつか、いつかぜんぶ聞こえなくなっちゃうかもしれないんだよ? ユキオ君が何を喋ってるのか、それもわかんなくなっちゃう日が来るかもしれないんだよ?」
「わかるよ」と僕は言った。
「気持ちを伝える方法なんて他にいくらだってある。たかが声が聴けなくなったって、何がなくなったって、そんなことで僕の気持ちは変わらないよ、絶対に。 だから『いつか』の心配なんて、もう君はしなくていいんだ。来るか来ないかもわからないような未来の不幸を先取りして、『今』を我慢したりしなくていいんだ」
「気持ちを伝える…方法?」

 僕はそっとミユキの右耳に手を伸ばし、補聴器のフックに指をかけた。ミユキが驚いたのか嫌がったのか首を振って邪魔をしたが、僕は頭を押さえるようにして強引に取り外し、ミユキのコートのポケットに押し込んだ。 そして不安そうに僕を見つめるミユキに向かって、両手をゆっくり動かし始めた。まず僕を指差し、ミユキを指差し、それから握った左拳の上で開いた右手をぐるぐると二回撫でるように回した。それは僕が以前買った本を読んで唯一会得できた基礎の基礎の手話で、こういう意味だった。



僕は、

君を、

愛している。




 生まれて初めての手話、それもぶっつけ本番で間違わずにできたのか自信はあまりなかった。
 でもミユキの表情を見ればその意味は伝わったのだとすぐにわかった。ミユキは顔をくしゃくしゃにして、顎を震わせながらぼろぼろと大粒の涙をこぼして泣いていた。 それは僕が今まで見たミユキの表情の中で一番みっともなくて、一番愛しく思える表情だった。この涙はクボタのためではない、他の誰のためでもない。今度こそ僕だけのために流してくれている、僕のための涙だ。僕の気持ちがミユキに届いたことを証明する、何よりも確かな証拠の涙だ。
 僕の腕はまるで磁石に吸い寄せられたように、いつの間にかミユキの肩を抱いていた。ミユキは僕の首に巻かれたマフラーに顔を埋め、僕にもたれかかるようにして泣き続けた。僕はその嗚咽に震える肩を繋ぎ止めるため、さらに強く力を込めて抱きしめた。
 ほら、僕らにはこんな方法だってあるんだ。僕は心の中でそうミユキに語りかけた。声なんてなくたって他に何がなくったって、どんな方法でだって僕らはこうして僕ら自身を言葉と成して、想いを伝えあうことができる。心を繋げあうことができる。 だから何も心配なんてしなくていいんだ、未来を怖がる必要なんてないんだ。ミユキ、君に今必要なのは、たったひとつの簡単なこと。

 僕を、信じることだ。


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