Being here with you feels so right 君と一緒にいるだけで、全てがうまくいく気がするよ We could live forever tonight 僕らは永遠にこんな素敵な夜を過ごしていけるんだ Lets not think about tomorrow 明日のことなんて何も考えなくていい And don't talk, put your head on my shoulder. 何も言わないで、今はただ僕の肩に頭を預けて “Don't Talk (put your head on my shoulder) " The Beach Boys |
■第十三章(1999.January)3■ せっかくの豪華イタリアンディナーが、まるで通夜のような湿っぽさだった。 交差点でのクボタとの遭遇以来、ミユキはすっかり喋らなくなってしまった。最初のうちこそ僕は頑張って漫画のことを話したり料理の味を誉めたりしていたが、ミユキが気のない相槌しか返してこないのでそのうち話すのをやめてしまった。ミユキにとってショックだったのと同じくらい、僕にとってもあれはショックだったのだ。クボタが節操のない男であることはわかっていたが、よりによって友人であるアオヤマの女にまで手をつけるだなんて。いや、アオヤマの女だからこそ、か? クボタの性格を考えればそれも十分ありえる話だ。 「不思議だな、わたし」 ミユキが久しぶりに口を開いた。 「クボタさんはああいう人だって、最初からわかってたはずなのに。それを承知の上で、好きになったはずなのに。いざああいう場面見せられたら、やっぱり悲しいの。自分を否定されたみたいな、惨めな気持ちになるの」 テーブルクロスの上に涙の雫が一滴、落ちて弾けた。 「こんな風に面倒臭い女にはなるつもりなかったのにな。ユキオ君がいけないんだよ。わたしなんかのこと、す、好きだなんて言うから」 ミユキの瞳にみるみる涙が溢れていく。「ゆ、ゆ、夢をみ、見ちゃったんだよ。クボタさんだって、い、い、いつかわたしを、好きって、好きって言ってくれるかも、しれないって」 ミユキはとうとうテーブルに伏せって泣き始めた。 僕は自分でも怖いと思うほど冷静に、その姿を見下ろしていた。どうしてだろう? ミユキの涙の原因は、僕。涙の対象は、クボタ。 だとすれば僕は動揺するなり自分を責めるなり、クボタを妬むなり、ミユキに腹を立てるなり、いくらでも感情の運びようがあるはずなのに。僕の心はいま早春の花々を映す湖の水面のように、優しく穏やかに澄んでいた。 それで僕はようやく思い出したのだ。僕はそもそもの初めからずっとこうなることを望み、待っていたのだということを。 以前ミユキはクボタの彼女にはなれなくともいい、と言った。時々会って遊んでもらえるくらいの関係が自分には分相応なのだ、と言った。今まで僕にはそういう考え方が理解できなかった、だから僕はミユキの本心が掴めないままずっと迷い戸惑ってきた。時には誤った行動に出てミユキを傷つけてしまったりもした。 でも今ははっきりとわかる。ミユキは今日までずっと自分の本心を偽り、我慢を重ねていただけだったのだ。本当は誰より独占欲が強く、わがままで、いまどきクリスマスにマフラーを編んでしまうくらいの乙女なくせに、障害者というコンプレックスから自分で勝手に世間との壁を作り、感情を押し殺してきていただけだったのだ。そしてとうとう今日、その壁が崩れた。 いま僕は初めて、壁の奥に隠されていたミユキの剥き出しのままの心と対峙している。そのことを確信した僕にもう迷いはなかった。クボタの助言も少女漫画のマニュアルも恋愛シミュレーションゲームの選択肢もいらない。僕は今どうすることが正しいことなのか、その答えを本能がすでに感じ取っていた。だから僕は僕の持てるありったけの優しさを込めて、テーブルの上のミユキの長い髪を指で梳き、掌で頭をそっと撫でた。 頭に手が触れた瞬間にミユキはぴくりと肩を振るわせ、嗚咽を止めた。しばらく反応を待ってみたが特に嫌がる様子を見せなかったので、僕は思いきって掌の移動範囲をさっきより広げてみた。旋毛の先からうなじ近くまでの距離を、僕の腕は小雨を払う車のワイパーのようにゆっくりと何度も往復した。ミユキが何か喋り出すまで続けようと思っていたが、ミユキはずっと黙ったままだった。 結局僕は店内のBGMが上品なピアノ編成にアレンジされた「いそしぎ」から「デサフィナード」に変わるまでの十分近くの間、ずっと無言のままミユキの頭を撫で続けていたのだった。周りの客の目に僕らがどう映っていたのかまでは気にする余裕がなかったので、それはちょっとわからない。たぶんずいぶん長い痴話喧嘩だな、くらいに思われていたんじゃないかと思う。 |