If there was a way
もし他に何か方法があったなら

I'd hold back these tears
僕はこんな風に涙に濡れることもなかったのかな

But it's Christmas day
でももう今日はクリスマスなんだ

Baby please come home.
だから帰っておいで、僕の元へ帰っておいでよ
“Christmas (baby, please come home)" U2

■第十章(1998.December)5■

 僕らはほとんど口も聞かず山手線に揺られ、新宿駅東口の改札を出た。
 マイシティ地下通路に並んだブランドショップから「ラスト・クリスマス」が流れているのがかすかに漏れ聞こえてきた。ありがちな話だが、つい最近まで僕はこの曲のタイトルを「最後のクリスマス」という意味だと勘違いしていた。しかし今日に限ってはこの不吉なタイトルを笑い事にはできそうにない。現に僕が送ると言い出してからずっと、ミユキの表情は曇ったままだった。本当は僕と一緒にいるのが不快なのを言いだせずに、じっと我慢しているだけなのかもしれない。僕の勇気やら自信やらはまるで塩を振りかけられたナメクジのように、小さく萎んで消えつつあった。

 とうとう西武新宿線の改札口に着いてしまったので、ミユキが定期券を取り出す前に僕は自分の鞄を開け一冊の本を差し出した。「アルマジロの木」という絶版の絵本漫画だった。古本屋ではまず見かけることのできないかなりのレア本で、僕の宝物の一つだ。ミユキが以前から読みたい読みたいと言っていたのを、今日のためにあえて貸さずに取っておいたのだ。
「あげるよ。クリスマスプレゼント」
 ミユキは意表を突かれたのか、慌てた声で言った。
「ええ、だってこの本、ユキオ君も大事にしてるって言ってたのに」
「僕はまたどこかで見つけて買うよ」
 ミユキは何かを探すように辺りをきょろきょろと見まわした後、ようやく今日初めての穏やかな笑顔で
「ありがとう。嬉しい」と言った。
 寒空の下で一時間も待った甲斐があった。本一冊など惜しくもなんともない。この笑顔のためなら、僕は全てを差し出したっていい。
「そうだ、それじゃわたしも。ユキオ君にもらってほしいものがあるんだ」
 ミユキが鞄の中をまさぐり、ピンクの小さな包みを僕に差し出した。
「ほんとはクボタさんにあげようと思ってたもので、悪いんだけど」ミユキは小声で呟いた。「あの人、ずっと女の子に囲まれてて、渡すどころか挨拶の一つもできなかったから」
 それで僕はようやく、ミユキの暗い表情の真相に思い至った。ミユキはクボタに会いに来て、クボタと話せずに帰る羽目になったことに対して落ち込んでいたのだ。 僕が原因ではなかったことに安心はしたが、ミユキの心中を考えると素直には喜べなかった。好きな人に相手にしてもらえない悲しさなら、最近の僕は身に染みてよく知っている。
「開けてもいい?」と僕は訊いてみた。
「いいよ。でも見ても笑わないでね」ミユキが恥ずかしそうに言った。
 僕は包み紙を開いた。中にはこげ茶色の手編みのマフラーが入っていた。丁寧に几帳面に編まれた、ミユキらしい優しさに満ちたマフラーだった。
 僕はそっと首に巻いてみた。少し毛先が首に障りくすぐったい感じがしたが、とても暖かかった。
「ありがとう」と僕は言った。
 ミユキは小さく手を振った。「ごめんね、なんか間に合わせの代用品みたいなもので」


 ホームに到着した電車から人が流れてきて、僕らの脇を通り過ぎていった。
 電光掲示板には次の各駅停車の発車まであと一分、と出ていた。そろそろ帰ると言い出すかと出方を伺ってみたが、ミユキは動く気配を見せなかった。僕らは押し黙ったまま人波が過ぎて行くのを待ち続けた。やがて発車のベルとともに電車が走り出していくのが見え、人の入れ替えを終えた改札前は少しずつ静寂を取り戻し始めた。

「わたしの耳はね、中学二年のとき体育のバスケの途中で突然聞こえなくなったの」

 ミユキが改札脇の広告掲示板にもたれかかるように立ち、独り言のように喋り出した。
「パスをもらって、さあシュートだって、ジャンプした瞬間にいきなり世界中の音という音が消えてしまった。それも両耳。 両耳とも同時に聞こえなくなるのは本当にごくごく稀なことなんだって」
 ミユキの声はかなり小さく聞き取りにくかったので、僕も一歩足を踏み出しミユキの隣に並んで立った。
「原因も不明。薬塗ったり音波当てたり色々やったけど、何も効果なし。 たぶん一生このまま、補聴器を使ってかろうじて聞こえる状態のままで安定するだろうって、 医者は言ってる。完全失聴に発展するケースはまずないって。でも両耳ともだめになったことだって、 まずありえないケースって言われたんだよ? 元々が例外ケースなんだから、また例外が起きてこの先完全に聞こえなくなってしまう可能性だって、当然ありえるでしょ?  わたしはそれが怖いの。またあのバスケのシュートの時みたいに、全てが突然消えてなくなっちゃう瞬間がいつ来るかわからない。それが怖いの。考えるだけで全身が震えちゃうくらい、怖いの」


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