If there was a way
もし他に何か方法があったなら

I'd hold back these tears
僕はこんな風に涙に濡れることもなかったのかな

But it's Christmas day
でももう今日はクリスマスなんだ

Baby please come home.
だから帰っておいで、僕の元へ帰っておいでよ
“Christmas (baby, please come home)" U2

■第十章(1998.December)4■

「ちょ、ちょっと…痛いよ、痛いってば、ユキオ君」
 階段の途中でミユキが僕の手を振り払うと同時に、右耳に指を差して補聴器のボリュームを上げた。一瞬の早業だった。
「ごめん」と僕はミユキに向かって大きく頭を下げた。「手荒なことをしてごめん。でもこうでもしないと、僕の声は君の耳に届きそうになかったから」
 ミユキは無言のまま俯いていた。もしかしたら、僕の強引な行動に腹を立てているのかもしれない。早まったことをした、と僕は今になって後悔し始めたがもう遅かった。 やってしまったものはもう仕方ない、このまま前に進むしかない。例えこれが間違った方法であるとしても。
「さっきの女の人はさやさんっていって、あの人もクボタのファンなんだ」と僕は言った。「確かに美人だとは思うけど、でもつきあいたいとは全然思ってない。さやさんだけじゃない、僕にはいま君以外の他の女の子とつきあいたいという気持ちはないんだ。 はっきり言わないでいてごめん」
 ミユキが何か喋ろうとしていたが、その言葉を遮るように僕が先に喋り出した。そのつもりはなかったのだが、結果的には前回の告白失敗のとき僕がミユキにやられたことの意趣返しのようになってしまった。

「ねえ、もう少し時間をくれないかな。もう少し時間をくれたら、僕は君のことをただの普通の女友達と思って自然に接せるようになるかもしれない。 それをゆっくり待ってもらうわけにはいかないかな。変に気を使ったりしないでさ」

 ミユキが目を閉じて何か考え始めた。言葉を選ぶとき目を瞑るのは、どうやらミユキの癖のようだった。
 最上階から戻ってくるエレベーターを一階で待つような沈黙の後、ミユキはようやく目を開き「ゆっくりって、どれくらい?」と言った。
「それは僕にもわからない」僕は正直に答えた。「半年か、一年か、あるいはそれ以上かかるかもしれない。一度好きになった人のことだもの、そう簡単にあきらめられるものじゃないよ。 君にちゃんとした恋人でもできれば、話は別だけど」
 恋人、という単語にミユキの表情がほんの少しだけ暗くなったのを、僕は見逃さなかった。本当はこのままいかにクボタがひどい男か、クボタをあきらめることがどれだけミユキのためになるかを語るつもりでいたのだが、それはやめておいた。そんなことをしてもミユキの中で僕の評価が下がっていくだけだ。
 再び海の底のような重い沈黙が訪れ、先にミユキが首を上げた。
「わたし、そろそろ中に戻ろうと思うけど。ユキオ君はどうする?」
 一緒に戻る、と返事をしてもよかったのだが、どうせ中に戻ったところでミユキとはあの忌々しい爆音テクノのせいで会話はできない。ミユキと話せないなら中に戻る意味は僕にはもうなかった。
「もう少し外にいるよ。気にしないで戻ってて」と僕は言った。
 ミユキは小さく頷き、階段を登り僕の視界から消えていった。

 僕は階段を降りたところの小さな駐車スペースにある、車止めブロックの上に腰を降ろした。あまり居心地の良い場所ではなかったが、中に戻らないのならここに座っているより他に選択肢はなかった。もう四時半を回って日は暮れかけていたし、ミユキは一時間も待っていればそのうち出てくるはずだ。五時半からのオフ会にはもう間に合わないだろうが、それはもう仕方ない。ミユキを送ることのほうが僕にはずっと大事だ。
 イベント会場の向かい側には煉瓦作りの小さなラブホテルが建っていた。観察するつもりはなかったのだがどうしても目に入ってしまうので、僕は時々通りかかるカップルが恥ずかしそうに入り口を覗き込んでは去って行くのをぼんやり眺めていた。一組も中に入っていかないということはおそらく満室ということなのだろう。まだ夕方だというのにお盛んなことだ。ほんの数メートル先の壁の向こうで人生の勝ち組たちがよろしくやっているのだと思うと、羨ましいやら悔しいやらで爆弾でも投げてやりたい気分になってくる。

 きっかり一時間後にミユキが階段から降りてきた。ミユキは僕の姿を見つけると「あっ」と声をあげて驚いた。
「ユキオ君? 帰っちゃったんだと思ってた」
「帰ろうとして、その辺をうろうろしてたんだけどさ」
 僕はまた一つミユキに嘘をついた。ずっと待っていた、なんて気持ち悪いこと言えるわけがない。
「なんとなく戻ってきちゃったんだよ。でもちょうど良かった、君が帰るなら僕も帰る。新宿まで送るよ」
「え、でも悪いよ」ミユキが手を振った。「わたしのことはいいから、ユキオ君は中に戻って楽しんでいって」
「送るよ」と僕はもう一度繰り返した。ミユキは小さく溜息をつき、「じゃ、帰ろっか」と言った。
 僕らは無言のままホテル街を並んで歩き出した。傍から見れば、僕らも空いているホテルを探しているカップルと思われてしまうのだろうか。滑稽な話だ。僕らの心はいまこんなにもバラバラで、砕け散る寸前の状態にあるというのに。


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