If there was a way
もし他に何か方法があったなら

I'd hold back these tears
僕はこんな風に涙に濡れることもなかったのかな

But it's Christmas day
でももう今日はクリスマスなんだ

Baby please come home.
だから帰っておいで、僕の元へ帰っておいでよ
“Christmas (baby, please come home)" U2

■第十章(1998.December)1■

 そもそもクリスマスというのは自宅で家族と共に厳かにキリストの生誕を祝うための日、だったはずだ。それがこの蝗の大発生のような人ごみは何だ。地平線の先まで人、人、人。渋谷という街のどこが面白いのか僕にはさっぱりわからないのだが、これほどの数の人間がわざわざ地方から電車に乗って目指して集まってきているというのはきっと僕の知らない何か素敵なことがどこかには隠されている、ということなのだろう。それが何なのかは別に知りたいとも思わないが。
 目がチカチカするような原色のダウンジャケットを羽織った頭の悪そうな若者どもが、駅前の狭い道で通行人の迷惑も顧みず何組も談笑の輪を作っている。そこに果敢に割引券を携え飛び込んでいく飲み屋やカラオケ屋の勧誘員は僕に昔テレビで見た蜜蜂の養殖箱を連想させた。ロータリーを堂々と占拠している街宣車はキリストの正しい教えがどうだの、信じぬ者は地獄に落ちるだの、余計なお世話以外の何物でもないような説教を延々と垂れ流し街の混沌をいっそう加速させていた。
 ベルトコンベアに乗せられた螺子のような気分でスクランブル交差点を流されていると、前の女が突然立ち止まって携帯をいじりだした。とっさに左右によけるスペースもなく、後ろからの圧力で僕は女の背中に思い切り頭をぶつけてしまった。女が何するのよ、という顔で僕を睨んだが僕は無視して歩き去った。睨みつけたいのはこっちのほうである。こんな女こそ今すぐ地獄に落ちればいいんだ、と僕は心の中で毒づいた。




 イベントスペースとやらは道玄坂をずっと上った先の、怪しいホテル街の一角にあった。打ちっぱなしのコンクリート造りが手抜きといえば手抜きだし、都会的でお洒落といえばお洒落な建物だった。
 受付らしい入り口のテーブルで耳朶に安全ピンを刺した赤髪のパンク女が「2500円」と、およそ客相手とは思えぬ無機質な声で言った。2500円もあれば漫画の新刊が五冊買えるのに、と僕は未練たらしく口を尖らせながら金を払い、代わりに再入場券とドリンクチケットを受け取った。
 中はすでにピコピコと電子音が耳に刺さるテクノミュージックが大音量でかかっていた。客数はざっと見渡したところで40人くらいだろうか。DJブース前に立ちリズムに合わせてふらふら揺れているのが10人くらい、フロア中央で何組かの輪を作り談笑しているのが20人くらい、後方のテーブルスペースでのんびり酒を飲んでいるのが10人くらい。その中の一テーブルで、五人ほどの若者に取り囲まれてアオヤマが何か話をしているのが見えた。
 さすがに日本一のお洒落都市・渋谷を闊歩できるレベルにまで及んではいないものの、アオヤマの服格好は以前より確実にまともになっていた。丈が短すぎていつも靴下が見えていた霜降りGパンは踵ぴったりの細身なフレアジーンズに変わっていたし、いつエロゲーのポスターが刺さっていてもおかしくなかった登山用リュックサックは生成りのコットンで上品に仕立てられたシンプルなトートバックに変わっていた。髪型も今風のヘアワックスでラフに崩したショートカットになっており、キャンパスのベンチが似合いそうな爽やか理系男子といった印象を受けた。悔しいが、少なくとも僕よりはモテそうに見える。これもミカの教育の賜物なのだろうか。

「あ〜、ユキオさんだ!」
 フロアからミカが走ってきて、僕の腕に飛びついた。腕の上でミカの胸が弾む感触が伝わり、僕は慌てて体を離した。
「これ見てください! アオヤマさんが買ってくれたんです〜!」
 ミカの腕には見るからに高そうな鞄が下がり、プラダのエンブレムが艶やかな金色の光を放っていた。
 このためにアオヤマがボロボロになっていくのを知りながら止めなかったのなら、この子も相当なタマだなと僕は呆れた。虫も殺せないような可愛い顔をして、女はこれだから怖い。


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