Those were the days of our lives
あの頃僕らの過ごした輝ける日々

The bad things in life were so few
人生に悪いことなんてほとんど何もなかった

Those days are all gone now, but one thing is true
全てはもう遠い昔のこととなってしまったけれど、
でも一つだけ確かなことがある


When I look and I find I still love you.
僕は今でも君を愛している
“Those were the days of our lives" Queen

■第一章(1998.September)4■

 その女の子はクボタの斜め後ろに少し隠れるように、遠慮がちに正座しレモンサワーの缶を大事そうに両手で包み持っていた。身長は推定で160cmといったところか。 小太りのクボタの隣に並ぶと特に細く華奢に見えた。
 腰近くまで伸びた長い栗色の髪。切れ長の瞼に収まりきらないくらいに大きな黒い瞳。ヨーグルトに苺ジャムを落として入れたような、白い肌にくっきりと透ける赤い頬。 歳はおそらく18〜20歳くらいだろう。小さく引き締まった顎が全体の印象を幼く見せていた。ピンクの淵のついた白いカーディガンがとても良く似合っていた。

「いや悪い悪い、無駄足運ばせてもうて。あと三分待っててくれたら間に合うたんやけどなあ」
 まったくもって反省の意思を感じないクボタの謝罪の言葉を無視し、僕はシートの空いている隙間に腰を下ろした。
「では全員揃ったところであらためて。乾杯!」
 僕とアオヤマがまだ酒を手に取ってもいないうちにクボタは高々とビール缶を掲げた。
「かんぱーい」
 女の子三人がすでに飲みかけの缶を掲げそれに続いた。やれやれ、僕とアオヤマの存在なんて最初から眼中にないということか。僕は不貞腐れて床に転がっているサワーの缶を取り一人でプルタブを開けて飲み始めた。
 いつものように僕に集中的に話しかけてくるアオヤマに生返事を返しながら、僕はちらちらとクボタの隣の女の子のことを盗み見ていた。良く見ればそこまで美人というタイプの子ではない。単純な顔立ちの美しさだけで比較するなら、おそらくマキやヒトミのほうが上だろう。休み時間にはひっそりと教室の隅で一人本を読んでいそうな、そんな地味な印象を受ける。でもその地味さが僕には心地良かった。その穏やかな微笑みはまるで日だまりの中でうとうとと微睡んでいるような、そんな陶酔感にも似た安らぎを僕に与えた。

「ユキオ! ちょっとこっち来いや」
 クボタが僕を手招きした。それを待っていたのだ。僕はすぐさま立ち上がり、クボタの元に小走りで向かった。
「お前は会うの初めてやったやろ。紹介するわ。ミユキや」
 女の子が僕に向かって微笑みかけたので、僕は反射的に頭を下げた。つられて女の子も頭を下げて、
「はじめまして、ミユキと申します」と言った。少し鼻にかかった可愛らしい声だった。オタクらしく身も蓋もない言い方をさせてもらえば「アニメ声」というやつだ。
「この子、漫画オタクやねん。お前のページのファンなんやってよ」
 そのクボタの言葉に続くように、ミユキが「ユキオさんの『ルナティック雑技団』、大好きです。いつも見てます。面白いです」と早口に言った。
 それはただの社交辞令でしかも僕自身のことではなくサイトの内容のことだと頭ではわかっていたが、大好きです、なんて女の子に面と向かって言われたのはそのときが初めてだった。それで動揺した僕は、 ありがとうございますと言うつもりがなぜか「すみません」と小声でつぶやいてしまった。ミユキは首を傾げ「?」という表情で僕を覗き上げたが、やがて何かに納得したように頷き微笑した。
「この子な、昔病気してちょっと耳悪いねん」とクボタが言った。「はっきり喋ってやらんと伝わらへんで」
 病気、という言葉のイメージに驚いた僕は失礼にも気づかずミユキの顔を凝視してしまった。そう言われて注意して見れば、長い髪に隠れて目立ちはしないが右耳のあたりに何かイヤホンのようなものの小さな膨らみが見えた。そういえば耳掛け型の補聴器というのがある、と昔テレビか何かで耳にしたことがあった気がした。もちろん実際つけている人を見るのは初めてだ。
「そんな気を使わなくていいですよ」とミユキが少し困った表情で言った。「普通に喋ってくれれば聞こえますし、聞こえなくてもわたし、読唇術でわかりますんで」
「読唇術?」
 あまりに胡散臭い単語だったので思わず反応してしまった。
「術、なんて言うほどたいしたものじゃないですけど。ただ聞こえにくい単語は唇の動きで補完してるんです」
「補完、なんて言葉使いがオタクやな、やっぱり」とクボタが横から突っ込んだ。
「もう、違いますよ」とミユキが笑った。
 そこからクボタとミユキによる昨年の劇場版エヴァンゲリオン「Air/まごころを、君に」の是非についてのアニメトークが始まった。二人の会話は心理学やら精神医学やらのそれっぽい専門用語がやたらに飛び交いまくり、軽くかじった程度の僕ではまったくついていくことができなかった。やがて話題は「カウボーイビバップ」やら「lain」やら別の作品に移っていき、アニメに疎い僕はときどき「へえ〜」と相槌を挟むだけの単なる聞き役に追いやられてしまった。意外に良く口の回る娘だな、と僕は退屈に任せて会話に夢中なミユキの小さな唇をじろじろと眺め回した。こうして端で会話を聞いている限りでは、ミユキの耳が悪いというのは言われてみなければまずわからない。
「ところで『ルナティック雑伎団』ってサイト名、岡田あーみんですよね?」
 ようやくアニメの話が終わったらしく、ミユキが僕に問いかけてきた。漫画の話となれば今度は僕のターン開始だ。僕はここぞとばかりに岡田あーみんの素晴らしさを切々と語り始め、今度はミユキとクボタが聞き役に回った。聞き役と言ってもクボタはいつものように「あー」とか「ほー」とかやる気のない相槌を返すだけで、ろくに聞いてはいなかったが。
「最近、何かおすすめの少女漫画ってあります?」
 ミユキが手に持ったレモンサワーの缶をくるくる回しながら言った。「わたし雑誌は普段読んでないから、最近の流行って詳しくなくて」
「最近の流行、と言われると僕も自信ないけど…『カレカノ』とか『SWEETデリバリー』とかは?」
「カレカノなら知っとるわ」とクボタが口を挟んだ。「来月からアニメ始まるやろ? 庵野が監督で」
「え、そうなの?」
 アニメ化されるらしいという話はどこかで耳にした覚えがあったが、来月とは知らなかった。
「10/2からだったと思います、確か」とミユキが小声で言った。日付まで覚えているとはさすがだった。
 それからしばらく最近の少女漫画についての話を続けた。僕が挙げた最高傑作は「バラ色の明日」で、ミユキが挙げた最高傑作は「こどものおもちゃ」だった。僕も「こどちゃ」は大好きだと力強く答えると横からクボタが「ユキオはロリコンやからな〜」と余計な口を挟んできたので、すかさず脇腹に蹴りを入れて黙らせた。ミユキはおかしそうに笑っていたが、今のショートコントと僕のロリコン疑惑のどっちを笑っているのかはちょっと判別できそうになかった。

→次へ
←表紙に戻る