初夏の湘南の海岸で、気の早い観光客が波と戯れているのがぽつぽつと見える。日の光を浴びてきらきらと輝く海に目を瞬かせながら、僕は海岸通りを走るハイエースの車内に流れる重厚な音楽に耳を傾けていた。顔に似合わず宮本さんはハードロックが好きらしい。

  駅前から海岸に出るまでの道中で宮本さんが説明してくれたのは、現代ヤクザというものがどれだけ大人しい組織になったか、についてだった。
「知ってる? ウチの組ね、銃なんか一丁も持ってないんだよ。どうせ使う機会なんかないってんでね」
  使う機会がないから銃を捨てたヤクザ。なんだか牧歌的な感じがしなくもない。戦争は終わった、ワー・イズ・オーヴァー。
「今のヤクザってのは要するに、暴力を背景にしたビジネス組織だよ」
  宮本さんは続けた。「ウチの組も今はもうパチンコチェーン経営で持っているようなもんだからね。入沢君も今度いっぺん事務所の中を覗いてみるといい、おいおいこの綺麗なオフィスのどこが極道なんだってきっと思うよ。僕なんかはそのパチンコ屋の表の営業活動を任されてる、半カタギ半ヤクザみたいな人間だね。ややこしい話だけど」
  なるほど、それで宮本さんの物腰が柔らかくおよそヤクザに見えないことにも合点がいく。営業マンみたいだと思ったら本当に営業マンだったとは。とりあえず僕の中に残っていた恐怖は宮本さんの話のおかげで綺麗さっぱりなくなってしまった。そうか、現代とはヤクザが営業スマイルを覚えなければいけない時代なのか。難儀な時代だ。
  車は由比ヶ浜を超えて鎌倉駅の方に入っていった。「もうすぐ着くよ」と宮本さんは言った。「そら、姫様の屋敷が見えた」
  姫様の屋敷?
  なんのことだかよくわからなかったので僕は聞こえなかった振りをして聞き流した。

  海岸から鎌倉駅に向かう途中の狭い道路を一本曲がったところに、瀟洒な煉瓦造りの高級マンションが建っているのが見える。宮本さんがウィンカーを右に出したところを見ると、目的地はどうやらそのマンションらしい。
「さて、僕たちヤクザは暴力を背景にしたビジネス組織だ、とはさっき説明したよね」
  宮本さんは後方を振り返りながらおそろしくゆっくりと慎重にバックを始めた。車庫入れはそんなに得意ではないようだ。
「ええ、そこまでは聞きましたが」と僕は言った。
「ウチの組としても、いつまでもパチンコ屋の稼ぎばかりに頼っているわけにもいかない。なにか新しいビジネスの需要はないものか、と当然考える。そこで閃いたのが、インターネットを使った情報ビジネスというわけだ」
  ハイエースのステップを降りてふと周りに停まっている車を見ると、全部ベンツかBMWである。絢爛豪華な高級車の競演の中で、宮本さんのハイエースは明らかに浮いていた。このマンションはまともに買ったらいったいいくらぐらいするのだろうか。間違ってもカタギのサラリーマンに買える額ではないだろう。
「インターネットの電脳世界というのは、ある意味ではヤクザにとって理想の地だよ」と宮本さんは言った。「電脳世界は技術さえあれば何だって出来る。犯罪の証拠をクリック一つで全て闇に葬りさることもね。犯罪が犯罪として成立しない世界。そこには当然、莫大な金が動く余地がある。まさに20世紀最後の地下大金脈と呼ぶに相応しい世界だ」
「はあ」と僕は曖昧な相槌をうった。話が大きすぎて、いまいち実体が見えてこない。
「で、僕は結局のところ具体的に何をさせられるんですか?」
「それはだね、いろいろとあるんだけど」
  宮本さんは胸のポケットから煙草を取り出し火をつけた。「一言で言うと、ハッキングだよ」
「ハッキング?」僕は驚いて訊き返した。
「僕が、ハッキングをやるんですか?」
「まあ最終的には、君にもやってもらうことになるかもしれない」と宮本さんは言った。「だけどもちろん、今すぐやってくれと言うわけじゃない。だいたい知識も経験も今はまるで無いだろうしね。当面のあいだ君にやって欲しいのは、今から会う人物の助手のような仕事だ」
「はあ」と僕はまた曖昧に相槌をうった。
  さすがに驚いた。
  そりゃ僕だって、ハッカーという人種が実在するということくらいはもちろん知っていた。具体的にどんなことをするのかも、テレビや漫画で見聞きした程度には知っていた。だけど、ハッカーというのは基本的に決して表には出ない、アンダーグラウンドな存在であるはずだ。そんな天然記念物みたいな人種にいまこれから目の前で会え、それも助手をやれだなんて突然言われては。僕はかなり動揺していた。そして宮本さんの「これから君はウチのハッカー様じきじきの面接を受けるわけだ」という言葉が、僕のその動揺に更に追い打ちをかけた。
  やはり来るんじゃなかったのかもしれない。

  巨大な玄関の前ではセキュリティー・システムの不気味な赤外線の光がぼくたちを見つめていた。高級マンションでは今や常識とも言えるオートロック・システムだ。宮本さんが部屋番号を呼び出すと、しばらくしてドアが開いた。
「ハッカーの人って、どんな人なんですか?」
  僕は上昇するエレベータの中で、不安げな声で訊いた。
「ん?『ルーシー』かい?」と宮本さんは言った。
「『ルーシー』?」僕は驚いた。「ルーシーって、外人なんですか? その人」
「ははは、違うよ」と宮本さんはさも面白そうな声を上げて笑った。「ハッカーってのはね、みんなネット上ではコードネームで呼び合うもんなんだよ。ウチのハッカー様は『Lucy』って名乗ってるわけさ」
「ああ、なるほど、要するにハンドルネームみたいなもんですね」と僕は言った。
「ルーシー、か」


  707のの部屋には住人の名字札が掛かっていなかった。
  郵便の投函口に限界までつめこまれた広告チラシがまるでポップアートのオブジェのようだ。だが宮本さんはそんなものには一瞥もくれず機械的に呼び鈴を鳴らした。どうやらこの投函口の有り様にはもう慣れているらしい。
  しばらくして玄関の扉が開いた。そして扉の向こうから現れた人物を見て、僕は仰天した。本当に腰が抜けるほど驚いてしまった。

  なぜなら彼女は、『ルーシー』はセーラー服を着た女子高生だったからだ。

  『ルーシー』は僕に気が付くと、頭の先から足下まで舐めるように見回した。僕はあまりの事態にただ呆然と立ちつくしているばかりだった。

  これは一体どういうことだ?
  このセーラー服着た女子高生が、ハッカーなのか?ヤクザお抱えの?

  『ルーシー』は不敵な目つきで僕に近づいてきた。
  つぶらで大きな瞳。まるでいたずら好きの子犬のような綺麗な瞳だった。僕はまるで魔法でもかけられたかのように一歩も動けずその場に立ちすくんでいた。
  『ルーシー』はいきなり僕の頬を両手で触った。僕は驚いて後ずさった。
  それを見た『ルーシー』はくすくす笑って、後ろにいた宮本さんに向かってVサインを繰り出し「ミヤモトさん、でかした!」と叫んだ。
「ずいぶんとイイ男じゃない。あたし気に入ったわ」
「…たぶん気に入ってもらえると思ってたよ」
  宮本さんも笑った。「僕も実際会ってみて驚いたよ。見事に君の注文通りだったからね。それでまあこれなら大丈夫だろう、と」
「うんうん、これはシゴキがいがあるわ〜。思わずヨダレが出そう」
  注文通り?シゴキ?ヨダレ???
  僕一人が話についていけていなかった。
  どうやら一つ一つ聞いていくしかなさそうだ。
「あの、注文通りって?どういう風に注文通り?」と僕は言った。
「あのね、『ルーシー』が連れてこいって言った条件ってのがね」
  宮本さんは笑いをこらえられない、といった様子でくっくっくっと口元を押さえながら、言った。「童貞のジャニーズ系ってんだから。探すこっちの身にもなれってんだよな、まったく」
  童貞のジャニーズ系? それはいったいどういう基準なんだ。突っ込みどころが多すぎて頭の整理が追いつかない。
「あはははは、でも見事見つけてきたじゃない。ミヤモトさん、えらいえらい」と『ルーシー』は言った。そして彼女はそのままぼくの方を向いて、深々と頭を下げた。


「はじめまして。池田明日架と申します。17歳、女子高生です」



  なにはともあれ、それが僕と『ルーシー』アスカとの出会いだった。

次のページへ進む→
←テクスト集に戻る