7月16日(日) 第十二話「雌犬調教師〜ご褒美は顔に〜」 香織ちゃんがお見合いをする。突然のその知らせにボクは驚愕し、すぐさま香織ちゃんの携帯に電話をかけた。348回目のコールでようやく香織ちゃんに繋がった。 「ふぁ〜い、もひもひ?」 あくび混じりの眠たげな声だった。無理もない、まだ朝の4時半だ。 ボクは急いでいたので早急に用件から切り出した。 「香織ちゃん!お見合いするってホントなの!?」 「…相変わらず情報が早いわね」 もはやボクの電話は慣れっこ、といった様子で香織ちゃんはこともなげに言った。 「しかも相手は大財閥の御曹司だっていうじゃないか」とボクは高ぶる感情を抑えつつ言った。「しかもなんだい、このふざけたお見合い写真は?思いっきりピースサイン出しとるやんけ」 「…」 「なぜだい?そんなにお金が欲しいのかい?こう言うのもなんだけど、お金ならボクにだって少しは蓄えがある。香織ちゃんのためなら全部使ったって惜しいとは思わない。それくらいボクは香織ちゃんのことを愛しているというのに、きみはボクを捨ててお見合いに行くというの?」 「…あんた、貯金いくらあんのよ」と香織ちゃんは言った。 「貯金?」とボクは言った。「貯金なら、ハッキングの仕事料とエロサイト広告で稼いだ金が3000万円くらいあるよ」 「たった3000万」香織ちゃんは一笑に付した。「あたしが今度お見合いする相手は年収20億よ。3000万なんて子供のお小遣いに見えるわ」 「うっ…」ボクはひるんだ。ボクの唯一にして絶対の武器であった財力が効かないとなると、これは少々手強い。 「ねえ、雪男君には本当に感謝しているわ」 香織ちゃんは急に改まって言った。「雪男君は世間知らずだったあたしに大切なことを教えてくれた。世の中お金が一番大事、ってことをね。今までありがとう、それじゃ永遠にさようなら」 「ちょ、ちょっと待…か、香織ちゃん!」 電話はツーツーと無機質な音を立てて切れていた。 初夏の太陽の照りつける週末の午後、広い庭園の茂みの中にボクは隠れていた。今日、この料亭で香織ちゃんのお見合いが執り行われるという情報を事前に掴んでいたからだ。部屋には盗聴器を仕掛けておいてあるのでヘッドホンからリアルタイムに会話が拾える。 「…それで、香織さんのご趣味はなんでしょうか」 相手の御曹司のキザったらしい声が聞こえた。双眼鏡で覗いて見ると、男はいかにもおぼっちゃん育ちという気品が漂う甘いマスクの持ち主だった。まずい、香織ちゃんはあの手のタイプのハンサムにすこぶる弱いのだ。 「…テニスと、乗馬です…」 着物姿も悩ましい香織ちゃんは普段聞いたこともないような猫撫で声でもじもじと呟いた。乗馬!?ボクは香織ちゃんが馬に乗っているところなんて一度も見たことがなかった。男の上に乗っているところなら何度も見たが。 「…あの、魔泉さんはどうして、あたしなんかとお見合いする気になったんですか?」と香織ちゃんは言った。 「あたしなんて魔泉さんから見たら、まだ17歳の小娘なのに」 「そんなことありませんよ」と男はにこやかに笑った。「17歳はぼくのストライクゾーンど真ん中です」 男は続けた。「正直な話、ぼくは今までお見合いなんてものには興味が持てなかったんです。だけど、香織さんのこのお見合い写真を偶然見た瞬間、一目惚れしてしまいまして。なんてチャーミングな女の子なんだろう、と。こんなに胸がドキドキしたのは安倍なつみ以来ですよ」 「まあ…」と香織ちゃんは頬を赤らめた。 もうボクは我慢ならなかった。香織ちゃんをなっちなんかと一緒にするなんて。ボクはモーニング娘全員足したよりも香織ちゃんのほうが可愛いと思うし、それくらい香織ちゃんのことを愛している。いくら金を持っているんだか知らないが、好きな女がぽっと出の色男にかっさらわれようとしているのを黙って見過ごせる男なんているはずがない。ボクは思わず茂みを飛び出して、縁側から襖を突き破って料亭の中に勢いよく転がり込んだ。仲居さんが驚いて運びかけていた茶碗をひっくり返した。陶磁器の割れる音が部屋中に響き渡った。 「な、なんだ貴様は!」御曹司が蜘蛛の巣まみれのボクを指差して怒鳴った。 「ゆ、雪男君…」香織ちゃんが真っ青になって言った。 「なに、香織さん、この男と知り合いなんですか?」御曹司が香織ちゃんに訊ねた。 「知り合いもなにも、ボクは香織ちゃんの恋人だ」とボクは言った。 「う、うそよ!でたらめよ!」香織ちゃんは御曹司の袖にすがりついた。 「この人、あたしのストーカーなの!!」 「ストーカー!?」 御曹司はボクの顔をまじまじと眺めて、ふっと笑った。「なるほど、今にもバスジャックでもやりかねないほど思い詰めた表情をしているな。おい!誰か!」 たちまち奥の廊下から黒服を着たいかつい男達が飛び出してきた。 「悪いが、こいつをつまみ出してくれ」 御曹司がぱちっと指を鳴らしたとたん、瞬く間に黒服二人がボクの両腕を取り押さえた。ボクは必死の抵抗もむなしくずるずると外に引きずられていった。 「か、香織ちゃん!目を覚ますんだ!君はだまされている!」ボクは必死で叫んだ。 「オマエがいい加減目ェ覚ませや」と香織ちゃんはとてつもなく冷たい目でボクを睨んだ。そしてボクはそのまま部屋の外に連れ出され、まるで不燃ゴミのような扱いで玄関から放り出された。耳元にセットした盗聴器からは香織ちゃん達の高らかな笑い声が聞こえてきた。ボクは自分の無力さにぼろぼろと涙をこぼし、まとまりゆく縁談の続きを虚ろに聞きながらただ呆然と立ちすくんでいた。 突然降り出した夕立ちの雨がボクの身体を冷たく濡らし始めていた。 |