六時間目

  「あれっ雪男先生、風邪?」

  分厚いマスクを付けた僕が部屋に現れるなり、桃が言った。
「うん、そうみたい」と僕はごほごほと咳こみながら言った。「今日は休みにしようかずいぶん迷ったんだけど。まだマスクすれば桃ちゃんに伝染すことはないレベルだと思うから、今日はごめん、これで我慢して」
「いや、いいんだけど」と言って桃はぷっと笑い出した。「あはは、それにしても雪男先生、マスク付けると余計へンなカオ」
「余計、って言うな」と僕。しかし桃は当然僕の話なんか聞いてない。
  愉快そうに笑い転げる桃を見ているうちに頭が痛くなってきた。そこで僕はさっさと今日の授業の要点だけでも終わらせてしまおうと教科書を開き始めた。しかしいつものことながら、桃は教科書になんか一瞥もくれない。部屋にやってきてから桃をなんとか机に落ち着かせるのに、最低でも10分は必要なのがいつものパターンだった。しかしいつもは密かに楽しみにしていたその10分のおしゃべりタイムが、今日は煩わしくて仕方なく感じられた。
「ねえ、取っちゃいなよ、マスク。いちいち雪男先生のカオ見るたび面白すぎて勉強になんないよ」と桃はまだ笑いながら言った。
「…取ったってどうせ面白いカオだよ」と僕は言った。「それに、桃ちゃんに伝染すわけにはいかないからね」
「いいよあたし。べつに、伝染ったって」と桃は真顔で言った。「今って文化祭の準備期間でさぁ。桃は劇の舞台作りの係なんだけど、あたし手仕事とかするのって大嫌いなのよねー。いま風邪ひいて休んどけば、面倒臭い準備全部パスしてちょうど文化祭迎えられるもんね」
「うわっ、ヒキョーな考えかただな」と僕は鼻をぐずらせながら言った。「若いくせにそんな面倒臭がるなよ。文化祭の準備とかって、やってるときは面倒臭くても終わってみるといい思い出になるもんだぞ」
「だーかーらー、あたしは『思い出』とかそういうの興味ないんだってば」と桃。「前言わなかったっけ?先のこと考えたり、過去を振り返ったりするのは好きじゃないの。あたしは、今が良ければそれでいいの」
  桃は僕の耳もとに手をかけ、そっとマスクを外した。接近した桃の額が僕の額に軽く触れ、ただでさえ熱を帯びた僕の頬はさらに赤く染まっていった。

「今は、雪男先生から、風邪を伝染されたいよ」

  そう言って桃は僕に唇を近づけてきた。
  その唇は回避しようと思えば回避できない速度ではなかった。が、僕は動けなかった。金縛りのように固まった僕の唇に、桃はその柔らかな唇を無造作に押しつけてきた。
  それはキスというよりは、単なる唇と唇の物理的接触のようだった。僕はこの突然のキスにどう反応していいのかわからずにいたし、桃は桃でこの先どうすればいいのかまるでわかっていないようだった。だから呼吸が苦しくなった僕の風邪気味の鼻が見苦しく鳴るまでは、二人とも唇をくっつけただけの状態のまま微動だにしなかった。桃はゆっくりと瞳を開けながら唇をそっと離した。そして照れくさそうに笑いながら、言った。

「これで風邪、伝染ったかな?」


  僕はなんと返事していいのかわからずに、鼻水の垂れかかった間抜け面をだらしなく晒しながらただただ惚け続けていた。
  また、やられてしまった。14の小娘に、いいように弄ばれてしまった。これで今日はまた勉強どころではなくなるだろうし、今のキスで風邪をひこうとひくまいとどちらにしろ桃にはメリットがある。やられた。またしても僕の完全敗北だった。
  僕は惚けた表情をなんとか元に戻そうと顔の筋肉に力を込めながら、どうか今のキスが原因で桃が風邪をひいたりしませんように、と祈った。桃の母親に、僕の不注意で桃に風邪を伝染したと思われたらたまらないからだ。だってそうだろう。桃が自分から伝染されようとキスしてきたんです、なんて、説明できるわけがあるか?



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