五時間目

  今日の桃はいつもにも増して上の空で、僕が何か言ってもああとかうんとかしか言わず問題集をやらせてもぼおっとしたきりいつまで待っても一問も進まない。
  やれやれ、ようやく涼しくなって過ごしやすくなったらなったで桃は余計に怠惰になっているようだ。いい加減ここらでびしっときつく言っておくかな、と僕が覚悟を決めかけたところで桃が久しぶりに口をきいた。

「ねえ雪男先生、雪男先生はコクハクってされたことある?」

「は?」
  桃の思いがけない質問に僕は素っ頓狂な声を上げた。
「告白?女の子からってこと?」
「当たり前でしょう」と桃は眉をひそめて言った。「他にどんな告白があるってのよ。まさか男からされたことがあるわけでもないでしょ?」
「残念ながら、無いね」と僕は言った。「男からも女の子からもされたこと無い。だいたい告白なんかされそうな顔か、見ればわかるだろ」
「ま、それもそうねぇ」と桃は意地悪そうに笑った。確かに返す言葉も無くその通りなのだが、桃みたいな子供にまで笑われるとちょっと腹が立つ。僕は「そんなことはどうでもいいから、早く続きやんなさい」と低い声で言った。
「わ、ちょっと待ってちょっと待って」と桃が慌てて手を振った。「ちょっとだけでいいから、仮にも先生なら教え子の相談に乗ってよ。
桃ね、実は昨日、隣のクラスの男の子にコクハクというものをされちゃったの」
「え」と僕は短い驚きの声を上げた。「コクハクされた?」
「うん」桃はちょっと照れくさそうに小さく頷いた。
「コクハクって、具体的に誰になんて言われたの」
「高橋君っていうんだけど、桃のことがずっと前から好きだったとかで、つきあって欲しいって」と桃は言った。「あんまり突然言われたから、あたしどうしていいかわかんなくなってそのときは走って逃げちゃったの。そしたら今日下駄箱に手紙が入ってて…とりあえずお試し期間でも何でもいいから、一回デートしてくれないかって」
「へえ」と僕は言った。「で、桃ちゃんはその高橋君のことをどう思ってるの?」
「べつに何とも」と桃はけろっとした顔で言った。「好きでもないし嫌いでもないよ。だって一回も同じクラスなったことないし、そもそもあんまり良く知らなかったんだもん」
「ふーん」と僕。こころなしか、ちょっとほっとしている自分がいることに気づく。
「で、桃ちゃんはなんて返事するつもりなの」と僕は訊いた。
「…その返事をどうしたらいいのかわかんないから相談したんじゃない」
「あ、そうなの?」
  桃は溜息をついた。「…雪男先生に相談したのは間違いだったかも」
「相談って言われてもなぁ」と僕は言った。「桃ちゃんにつきあう気があるならとりあえずデートしてみればいいし、その気がないならきっぱり断ればいい。…なんて当たり前のことしか言えないよ」
「それくらいは桃だってわかってるよ…もちろん」と桃は声を沈ませて言った。「その自分の気持ちが良くわかんないから雪男先生に聞いてるんじゃん。
ねえ雪男先生、雪男先生はあたしが男の子とつきあっちゃったらやだ?淋しい?」
  僕はそれについてちょっと考えてみた。桃は瞳を輝かせながら僕の返事を待っている。
「雪男先生がいま『つきあうな』って言ってくれたら、あたし明日きっぱり断ってくることにするよ」と桃は言った。「どうする?つきあって欲しくないなら今のうちだよ?」

  つきあって欲しくないか、って?その結論は、すでに僕の感情が驚くほど正直に出していた。僕は、桃に、他の男の子となんかつきあって欲しくない。それも絶対に駄目だ、と言ってしまいたくなるくらい猛烈に。自分の中にこれほどの独占欲が潜んでいただなんて、今の今までまったく気がつかなかった。さすがに自分でも呆れてしまう。
  だからと言って、僕が桃のことを一人の女の子としてすでに愛してしまっているのか?ということを考え始めると、話はまた一段とややこしくなる。おそらくは僕は桃が好きだ。愛している、と思う。だけどその愛情が恋愛の対象としての男女愛なのか、目の離せない可愛い妹ととしての家族愛なのかは今の僕にはどうしてもわかりそうになかった。たぶん今は相当に曖昧なラインを彷徨っているのだと思う。だけど最終的に僕が桃のことをどんな対象に捉えるにしても、余所の男に黙ってくれてやる気なんか僕にはさらさらないのだってこと、それくらい桃はもう僕の中で大きな大きな存在になってしまっているのだってこと、それだけは今回いやというほど思い知らされてしまったみたいだ。だから僕はなんとか教師としてのメンツを保てるような上手い言葉を選びつつ、桃に語りかけた。
「とりあえず男の子なんかに夢中になられると、ただでさえはかどってない授業の能率がいっそう落ちそうだな。それは困るな」と僕は言った。しかしそんな中途半端な言い方ではちっとも満足できないようで、桃は奇妙に色っぽい声で僕に囁きかけてくる。

「ねえ、言ってよ…『つきあうな』って。そしたらあたし、雪男先生のことが好きだからつきあえないって、ちゃんと言ってくるから」

  上目遣いに僕の瞳を覗き込む桃の髪の毛の匂いが僕を激しく混乱させる。僕は椅子ごとその場に押し倒してしまいたくなる衝動を必死でこらえ、つとめてクールにこう言った。「should notだ」
「えっ?」と桃が目を丸くする。僕は何でもないような顔して桃の解きかけの問題集を指差した。

「『すべきではない』はshould notだってば。桃ちゃん、そこまた間違えてるよ」

  桃は問題集と僕の顔を交互に忙しく首を振って何度も見た後、また僕に上手いことはぐらかされたことに気がついて頬を膨らませる。そしてふっと小さく笑って、言った。
「まあいいわ、今日のところはこれくらいで許しといてあげるわ…雪男先生があたしに他の男の子とつきあって欲しくないと思ってることだけは、良くわかったから。
ふんだ、心配しなくてもどうせ最初から断るつもりでしたよーだ」
  桃が小さく舌を出すのを見た僕は、思わず笑顔がこぼれそうになるのをなんとか隠し「それはわかったから、いい加減問題に戻ろうね、桃ちゃん」と言った。桃はすっかり上機嫌で「はーい」と言って椅子を回し僕に背中を向けた。それでようやく僕は心からの笑顔でだらしなく表情を崩すことができたのだった。



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