四時間目(前編)

  物覚えの要領の悪い桃の前に新たに立ちふさがった壁の名は「助動詞」だった。先刻から桃はシャーペンの頭をくわえたまま問題集の前でうーうーと唸りっぱなしだ。
「だから、must notが『してはいけない』でshould notは『すべきではない』だっての。全然意味が違うだろ」と僕は言った。
「ぜーんぜん同じに聞こえる」と桃はあきらめ顔で答える。「そんな微妙な違いなんかさー、どうだっていいと思わない?」
「君や僕がどう思おうが、容赦なくテストには出るんだよ」と僕は冷徹に言った。それで桃はやれやれと手を広げ、再び問題集との格闘に戻っていった。

  九月に入ってだいぶ涼しくなったせいか、桃の部屋のクーラーもさすがに今日は稼働していない。僕は退屈凌ぎに、セーラー服姿の桃の胸元に小さく結ばれたリボンをぼんやりと見ていた。そういえば世間ではもう学校が始まっているんだったな、と僕は思った。こういう時ばかりは大学生の我が身のありがたさを痛感する。なんてったって僕の夏休みはまだ一月近くも残っているのだ。
「ねえ雪男先生」
  桃が問題集を解きながらぼそりと呟いた。「来週、あたし誕生日だって知ってた?」
「誕生日?」と僕は言った。「いや、知らなかった」
「じゃ、今知って」と言って桃は顔を上げ、にこにこと笑った。「もちろん雪男先生のことだから、お祝いのケーキとプレゼントの一つくらい持参して来てくれるんだろーなー。あー楽しみ」
「…ケーキはともかく、プレゼントねぇ」と僕は苦々しい顔で言った。「いいけど、今あんまりお金ないなぁ。できれば安くあがるもんにしてもらえないかな」
  桃は首を傾げて考え込んだ。そしてしばらくの後、「じゃ、安く済みそうなものであたしが欲しいもの、リクエストしていい?」と言った。
「いいよ」と僕。安く済むならリクエストに答えるなどお安い御用だ。

「あたしね…口紅が欲しいの」と桃は照れくさそうに呟いた。

  口紅?桃が?
  僕は桃の顔を再確認するようにじろじろと眺め回した。どこからどう見ても小学生と見紛うくらいの童顔だった。この童顔に口紅というのはいくらなんでもちょっと似合わないのでは、と僕は思った。
「あのね、いま友達の間で口紅塗るのが流行ってて。あたしも一本くらい欲しいなー、と思って」と桃は言い訳するみたいに早口で言った。さすがの桃も、自分の口から口紅などという単語が発されることの似合わなさは充分自覚しているようだった。
  僕は桃のそんな慌てた口調が可笑しくて、くっくっと笑いをかみ殺しながら「いいよ、口紅くらいなら買ってあげるよ」と言った。
「ほんとに!?」
  桃が机を立ち上がって嬉しそうに僕に迫った。「やった、どうもありがとう雪男先生」
「どういたしまして」と僕はにこやかに言った。口紅程度でこれだけ喜んでもらえるとこちらとしても張り合いがあるというものだ。
  そうだ、ピンクの口紅を買おう、という考えが僕の頭の中に閃いた。桃の幼い唇にも違和感なく似合うような、柔らかな桃色の口紅を探そう。そう決めると急に桃の誕生日が待ち遠しくなってくるから我ながら困ったものである。やれやれ、と僕は思った。いつの間にか桃の笑顔を見ることがこんなに楽しみになっている自分がいる。

「じゃあ雪男先生、来週よろしくね。絶対忘れちゃだめだよ」と桃が念を押す。
「はいはい」と僕は答える。そしてつとめて機械的に、問題集の続きをやるよう桃に促す。もっと話を続けたい、桃の笑顔をこのままもっと見ていたいという気持ちを胸の奥に封じ込めて。
  ぴょんぴょんと慌てて机に戻っていく桃の後ろ姿はまるでウサギみたいに見えた。
(後編に続く)

四時間目(後編)

  桃の母親に挨拶し階段を上がると、その音を聞きつけた桃が部屋を飛び出してきた。桃はまるで飼い主の帰宅を察知した犬のような瞳で僕を見ている。僕は階段を上りながら「誕生日おめでとう、桃ちゃん」と言って桃に微笑みかけた。桃は口元をこれ以上ないくらい緩ませてにこにこと笑った。
「あれっ雪男先生、ケーキは?」
  桃は僕が手ぶらなのに気がついて急に眉をひそめた。
「ああ、ケーキならさっき下で君のお母さんにあずけてきたよ」と僕は言った。「勉強が終わったら食べようね」
「えーっ」
  桃があからさまに不満げな声を漏らす。「だめだよ、そういうのは先にやっちゃわないと。気になって勉強なんか集中できないよ」
「そう言われてもなぁ…」
  僕は困ってしまった。これでも桃の母親には割と信用されているほうなのだ。勉強が終わったら食べさせるつもりだ、と一度言って渡したケーキをもう取りに行くような真似は、桃には悪いがとてもできない。
「その代わりほら、先にプレゼントをあげる」と僕はポケットをまさぐりつつ言った。話を逸らしてケーキのことは忘れさせる作戦だ。
  僕はポケットから小綺麗にラッピングされた小さな袋を取り出し、桃に手渡した。「はい、桃ちゃん。誕生日おめでとう」
「わあ、ありがとう」桃は満面の笑みでそれを受け取った。
「ねぇねぇ、開けてみていい?」
「いいよ」
「わーい」
  桃が袋を開けると中からは親指大の口紅が一本、ころりと転がり落ちてきた。桃がキャップを外すとその口紅は鮮やかな桃色の光を放った。
「ていうか、このマークって…ひょっとして、シャネル?」と桃が抑揚のない声で訊いた。
「そうだよ」と僕は答えた。「何がいいのか全然わかんなかったから、デパートの店員に事情を話して相談したんだ。そしたらそのシャネルの桃色がいちばんいいって言われたから、それにした」
「えっ、だって、シャネルって」桃はおろおろとして言った。「高かったでしょ?雪男先生、お金無いって言ってたのに、シャネルなんて…」
「そうでもないよ」と僕。実は本当にそうでもないのだ。シャネルと言ってもしょせんは口紅、定価はたったの二千六百円である。世間一般のプレゼント代の相場から見れば安上がりもいいところだろう。しかしそのことは桃には黙っていた。柄にもなく感動している桃があまりにも可愛かったからだ。
「ねぇ、ちょっと塗ってみてごらんよ」と少し調子に乗った僕は桃に言ってみた。「どんな色になるのか、見てみたい」
「ええっ?」桃が驚きの声をあげた。「今?」
「うん、今」と僕は言った。
「でもあたし、口紅のつけかたなんかわかんないよ」
「口紅につけかたなんかあるの?」
「さあ…」
  桃は桃色の口紅のカット面をあちらこちらの角度から眺め回していた。こうしてまじまじと見ると本当に口紅なんてクレヨンと同じだな、と僕は思った。ならば使い方もクレヨンと同じでかまわないんじゃないのか?そこらへんの化粧の仕方なんかは男の僕にはおそらく一生わからない、永遠の神秘なんだろう。そして今の段階では、桃にとってもそれは神秘のようだった。それを理解するには、桃はまだ女としての経験値が足りなさすぎるのだ。
「…まあいいや、とりあえず塗ってみるね」
  と言って桃は鏡台に向かい、唇をまるで準備体操するみたいに開いたり閉じたりしてみせた。赤ん坊がビスケットでも咀嚼しているみたいだな、と僕は思った。
  やがて桃は意を決したように唇に押し当て横に引き始めた。桃の薄い唇が少しずつベビーピンクに染まっていくのがわかる。
  しかし口紅の乗りが悪いのか桃のやり方が間違っているのか、なかなか思ったように色がつかない。最初は丁寧に慎重にラインを引いていた桃もだんだんいらいらしてきたのか、引き方が雑になり力がこもってくる。そして勢い余った桃の口紅はとうとう唇を滑り、頬の先まで見事にピンクのラインを引いた。僕は思わずぶっと吹き出してしまった。
「あっはっは、桃ちゃん、口割け女みたい」
  僕はあまりの可笑しさに文字通りその場に笑い転げた。顔を真っ赤にした桃はすぐにテッシュペーパーで頬と唇を拭いだした。
「な、なによー、ちょっと失敗しただけじゃない」と桃は必死になって弁解を始めた。そしてすぐにしゅんとなって、「初めてだったんだもん、しょーがないじゃない…そんな、笑わなくてもさ」と力なく言った。
「あはははは、ごめんごめん」と僕はなおも止まらない笑いをこらえながら言った。桃はふてくされたように口紅にキャップをし、鏡台の上に置いた。ドライヤーと、櫛と、髪どめの他には何もない桃の鏡台の上に突然置かれたそのシャネルの口紅はどうにも違和感を醸し出していた。
「だいたい、雪男先生がいきなりつけてみろなんて言うから」
  桃が頬を膨らませる。
「だから、ごめんって」と僕は言った。その途端また笑い出しそうになるのを必死でこらえた。そして悔しがる桃の頭をぽんぽんと叩いて、「まあその口紅は大事に取っておくことだね」と言った。

「もう少し大人になって、口紅の似合ういい女になるまで、待ちなさい。君に化粧はまだ早い、今はまだやめときなさい」

  桃は不満そうに僕を睨み付けた。そしてなんとか一矢報いたいと思って懸命に考えたのだろう、桃にしてはなかなか気の利いた質問を僕にぶつけてきた。

「雪男先生、それはmust not?
それともshould not?どっちかしら」


  僕はしばらく考え込んだ後で、こう答えた。

「この場合一番相応しい助動詞は、cannotじゃないかな」

  その答えに込められた皮肉に気づいた桃は僕の身体をばしっと叩き、不愉快そうに机に向かっていった。
  鏡台の上には桃の唇を拭った後の、ほんのりとピンク色に染まったティッシュペーパーが残されたままだった。僕はそれを拾いしばらく眺め回した後、名残惜しそうにごみ箱に放った。それは僕にはまるで桃が落とし忘れていった、少女の夢の破片のように見えたのだった。


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