三時間目(前編)

  学校が夏休みに入る今こそが差をつけるチャンスである、ということを桃はちっとも理解してくれない。怠け癖があるのは前からわかっていたことだが、夏休みに入ってからの桃のだれ具合はあまりにも目に余るものがあった。僕がこの日十回目くらいの注意をすると、桃は炎天下の庭に繋がれた犬のようにだらしなく舌を出しながら机に伏せた。
「だってー、暑いんだもん。勉強する気なんか起きないよー」
「クーラー効いた部屋で何言ってんだよ」と僕は言った。「さ、起きて。今日も苦手の『時制の一致』の克服いくぞ」
「時制なんかどうだっていいよー」と桃は机に伏せたまま言った。
「あたしは『現在』にしか興味ないもん。今このときが楽しければいいの、未来も過去もどうでもいー」
  そりゃ俺だってそうだ、と僕は言いたかった。僕だって、何も好きこのんでこのクソ暑い真夏の昼間っから未来形だの過去形だのなんて話をしたいわけではないのだ。本音を言えば、家でかき氷でも食ってゴロゴロしていたほうがどれだけ楽だかしれない。しかし、本音はどうあれ今の僕は家庭教師なのだ。教師が教え子と一緒になってだれているわけにはいくまい。僕はそう自分に言い聞かせて、問題集のページを開いた。しかし桃はその問題集を見ようともしない。

「ねえ雪男先生、海連れてって」

  桃は突然起きあがって僕に迫ってきた。「明日海連れてってくれると約束してくれたら、真面目に勉強する」
「海?」と僕は言った。
  海か、それも悪くないな、と僕は反射的に思った。悪くないが、連れていく相手が桃となると話は別だ。そこには世間体というややこしいものが絡んでくる。
「友達と行けばいいじゃないか」と僕は適当に切り返しておいた。
「友達じゃ意味ないもん。雪男先生と行きたいんだから」と桃は頬を膨らませた。「ね、行こうよ、海。ほら、先生に見せるために水着も新しいの買ったのよ」
  そう言い終わらないうちに桃は突然ワンピースを勢いよく脱ぎ始めた。僕は予想外の事態に目を丸くしたが、その間にもう桃はすらっとした手足を惜しげもなく晒した大胆なビキニ姿に変わっていた。チェックの可愛いブラの中に桃の成長途中の小さな胸がすっぽりと収まっていた。身体つきはまだまだ未成熟ながらも、透き通るように白い肌の美しさはさすがの13歳である。僕は思わず一瞬目を奪われてしまった。
「じゃーん、どお?」と桃は得意げにポーズを取ってみせた。
「どお、じゃないだろ」僕は痛む頭を指で押さえながら言った。「わかったから桃ちゃん、とりあえず服着て」
「やだ、海連れてくっていう約束の言葉をまだ聞いてないもん」と桃は言った。
「今さー、下にママがいるのよねー。この状態であたしがママ呼んだら面白いことになると思わない?」
  桃は上目遣いに水着の紐を指でくいっと摘んでみせた。これでどうやら挑発しているつもりらしい。僕は深い溜息をついた。
「…負けたよ、桃ちゃん」と僕は言った。「明日、海連れてってやるよ。約束する。だから今日のとこは服着て、大人しく勉強してくれよ」
「ほんとに?」桃は目を輝かせた。そして水着のまま僕に飛びついて、「約束したからね?明日海行くって、約束したからね?」とはしゃいで言った。
「わかったから、服着ろって」
  僕は困ったような嬉しいような複雑な表情で桃の肩を掴んだ。クーラーの冷風にずっと当たり続けていた桃の肩は冷蔵庫から出したばかりの果物みたいに冷たく、柔らかかった。僕はぎゅっと抱きしめてしまいたい衝動を必死でこらえ、桃の小さな身体をそっと離した。
「今回は、特別だからな」と僕は言った。その「特別」をおそらく今後何度も許すことになるだろうことを知りながら。

(後編に続く)

三時間目(後編)

「んもう、雪男先生、早く!こっちこっち!」

  波飛沫に濡れた桃のビキニが太陽に照らされ眩しく光る。僕は焼けるような砂浜の上に敷かれたビニールシートに寝ころびながら、波打ち際に佇む桃の姿をぼんやりと眺めていた。

「ねえ雪男先生、せっかく来たんだから一緒に泳ごうよー」
  いつまでも動こうとしない僕に業を煮やしたのか、桃が側にやってきて僕の腕を引っ張った。濡れた桃の手のひらはとても冷たかった。
「後でね」と僕は面倒臭そうに言った。
「後でって、いつよ」
  桃が不満そうに頬を膨らます。長い髪からぽたぽたと水を滴らせる桃の顔がいつもよりずっと色っぽく見えて、僕はどきっとした。そういえば、髪を束ねていない桃を見るのは初めてかもしれない。髪を下ろしているだけでこんなにも印象が変わるものだとは。
「あー、わかった」
  桃がぽんと手を叩いた。「雪男先生、泳げないんでしょ」
  見事に図星をさされて僕は内心動揺していたが、知らんぷりして寝たふりを続けることにした。桃は面白くなさそうに僕を見下ろしていたが、やがてあきらめて一人で波打ち際に走って行ってしまった。

  後に一人残された僕はせいせいしたような淋しいような複雑な気持ちで、瞼を刺すような熱い日差しに微睡んでいた。さざめく波の音がまるで子守歌のように聞こえてくる。このまま眠っていればちょうど帰る頃になるだろうか、と僕は夢うつつに考えた。しかし熟睡するにはあまりに暑すぎる日差しに、僕は思わず虫を払うように手を振り払った。
  まったく、海なんて来るんじゃなかった。そもそも泳げないくせに女の子と一緒に、それも桃みたいな子供と一緒に海に行こうという時点ですでに間違っていたのだ。それも教え子の前だ、波間にぷかぷか浮いていることしか出来ないような無様な姿を晒せるわけがない。せっかく海まで来て、こうして身体を焼いているふりをするしかないというのはなんとも馬鹿馬鹿しい。僕はかなり苛立っていた。見栄を気にせずにはいられない自分自身の性格に対して。

  10分ほどして、桃が波打ち際から帰ってきた。
「あー疲れた」と桃は肩を回しながら言った。「一人じゃ全然面白くないよ。あーあ、雪男先生なんかと来るんじゃなかった」
  あからさまに僕に聞こえるように独り言を言う桃。まあ何を言われても仕方ないだろう、と思って僕はそれを無視した。すると桃はどさっという音を立てて突然僕の隣に寝ころんだ。僕はびっくりして起きあがった。
「あたしも身体焼くー」と桃はうつ伏せに寝ころんだまま言った。「ねえ雪男先生、背中にオイル塗ってくれない?」
「オイル?」と僕は明らかに動揺した声で言った。
「それくらいしてくれてもいいんじゃない?」と桃は嫌味ったらしく笑った。僕はぽりぽりと頭を掻いて、バッグの中からサンオイルを取り出した。

  それから僕は桃の身体にまんべんなくオイルを塗り始めた。
  桃の足、桃の腰、桃の背中、桃の首筋。順番に撫でていくと、女の子の身体というのがいかに華奢で柔らかく、男の自分のそれとは違うものなのかが実感としてよくわかった。特に人一倍小さい桃の腕や足はまるで植物の茎みたいで、少し力を入れただけでぽきっと折れてしまいそうな気がした。それで妙に神経を使わされた僕は塗り終わるまでにやたら変な汗をかかされてしまった。
「終わったよ」と僕は言った。たかがオイルを塗っただけでもうくたくたに疲れてしまっていた。
「ん、ありがと」と桃は寝言のように呟いた。泳ぎ疲れたのだろう、相当眠そうだ。
「あ、ねえ、ブラの紐も外しておいて」と桃が言った。
「はあ?」と僕。
「だって、背中に紐のあと残るのやじゃん」桃はしらっとした顔で言う。
「そりゃそうだけど」
「じゃほら、早く外して」
  僕に頼まなくても自分で外せばいいじゃないか。と思った瞬間、桃はまたいつものように僕をからかっているのだということに気がついた。こうして妙なことを頼んで、それで僕が動揺するのを見て楽しんでいるのだ。その魂胆が見えた以上、動揺しては負けだと僕は思った。そこで僕は望み通り、桃のブラの紐を手際よくさっとほどいてしまった。予想通り、桃は僕の意外な行動の早さに逆にびっくりしているようだった。
「これでいいんだろ?」と僕はちょっと得意げに言った。
  桃は面白くなさそうに「どうもありがとう」と言った。そしてそのまま黙りこくってしまった。

  桃がうつ伏せのまま口を聞かなくなってしまったので、僕は退屈にまかせて桃の綺麗な背中を眺めていた。
  白い肌にわずかに付着した砂粒が弾かれてきらきらと輝いている。珠のような肌、という表現がぴったりの綺麗な肌だった。この奇跡のような美しさはやはり14という彼女の年齢に起因しているのだろうか、と僕は考えてみた。今はこんなにも綺麗な桃の肌も、いつか年を取ったら失われていってしまうものなのだろうか。あまり考えたくない問題だった。
  そのとき突然桃の身体が動いた。
  むにゃむにゃと何か小さな寝言を呟きながら、桃が身体を横にする。僕のすぐ目の前に桃のピンクの可愛い乳首が現れて、僕はこの夏一番といっていいくらい驚いてしまった。これも桃のイタズラなのか?という考えが一瞬頭をよぎったが、いくらなんでも僕以外の人間にも胸を見られてしまう可能性がある状況でこんな大胆な仕掛けをするはずがない。桃は完全に眠ってしまっているのだ。自分が上半身に何も着けていないことも忘れて眠りこけて、無防備にも寝返りをうったのだ。僕は慌てて桃の肩を掴み、うつ伏せの状態に戻してやった。それでようやく桃の小さな乳房は再びビニールシートに押しつぶされた。僕は今の一部始終を誰かに見られていなかったかと、心臓をばくばく言わせながら周りを見渡した。幸いにして誰にも見られていなかったようで、僕はほっと胸をなで下ろした。そして思い出したように、桃のブラの紐をもう一度固く結び直した。また寝返りを打たれたらと思うと心臓がいくつあっても足りなそうだったからだ。

  桃がそれから目を覚ましたのは1時間後のことだった。
「あれっ、あたし、寝ちゃってた…?」
  桃は瞼をぐじぐじと擦りながら言った。起きあがるとき、背中にかけてやっていた大きなタオルがはらりと落ちた。
「これ、雪男先生がかけてくれてたの?」
  そうだよ、と僕は言った。「火傷しちゃうと大変だからね」
  ありがとう、と桃は言ってふらふらと立ち上がった。なぜブラが着いているのかについては何も聞かれなかった。たぶん外していたことなど忘れてしまってるのだろう。
「ねえ、起きたところで、そろそろ帰ろう。日が暮れると道が混む」と僕は言った。というよりも、正直なところ桃の見張り番はもうこりごりだったのだ。早く帰ってシャワーを浴びて、クーラーの利いた部屋でぐっすり寝たかった。桃もそれは同じらしく、仕方ないという表情でこくりと頷いた。それで僕らは荷物をまとめ、浜辺を引き上げた。


  公衆トイレから帰ってくる桃を、僕はバイクのエンジンをふかしながら出迎えた。桃が後ろに乗るときわずかに潮の匂いがした。それで僕はなぜか突然先刻見た桃のピンクの乳首を思い出し、一人で赤面してしまった。
「ねえ、雪男先生」と桃が後ろで言った。
  僕はバイクのアイドリング音に負けないよう、「なんだい」と大声で聞き返した。

「桃が眠ってる間に、何もしなかったでしょうね?」

  僕は聞こえなかったふりをしてバイクを走らせ始めた。海岸道路を吹き抜ける風はことさら気持ちがよかった。僕は背中に柔らかな桃の身体の感触を感じながら、なんだかんだ言っても来て良かったな、なんて思っている自分が可笑しくてくすくすと笑った。その身体の振動を桃はバイクの揺れと勘違いするだろうか。いや、勘のいい桃のことだ、きっとばれるに決まっている。と思ったら、案の定すぐに桃は僕の耳元に向かってこう言った。
「ねえ、何笑ってんのよ?」



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