僕が桃の家庭教師に就任してから1ヶ月も経つというのに、何度言っても桃は僕のことを「雪男先生」とは呼んでくれない。いつも「ユキオくん」、ひどいときには「ユキちゃん」だ。 さすがに「ユキちゃん」では教師としての沽券に関わるので僕は真剣に叱るのだけれど、桃は全然反省の色を見せない。むしろ叱られるのが楽しくて仕方ないみたいだ。やれやれ、僕もなめられたものだ。 「ねえ、ユキオくんは彼女とかいないの?」 桃はシャープペンを暇そうにくるくる回しながら言った。 「な、なんだよ、藪から棒に」 僕はどぎまぎしながら答えた。ひっつめ髪にしたあどけない少女の首筋からはえもいわれぬ甘い果物のような香りがして、それが余計に僕を動揺させる。 「あ、いないんだぁ」桃はにんまりと微笑んだ。「そうだよね、どうひいき目に見たって女の子にモテそうにないもんね、ユキオくんって」 「ほっとけ」と僕は言った。大きなお世話だ。「そういうこと言う奴には罰を与えてやる。単語暗記ノルマ、あと20追加だ」 「えーっ」桃は小さな頬をぷくっと膨らませて文句を垂れ始める。「もういいよー、今日はここまでにしようよー。桃もう疲れちゃったよ」 「何言ってんだ、まだ30分しか経ってないじゃないか。これからだろ」 「もう30分も経ったんじゃん、勉強はいいからおハナシしようよおハナシ。ねっ、ユキオくん」と桃は甘えた声を出す。 「だーめ」と僕は言った。 「でもさっき、ママ出かけてったよ。今この家、桃とユキオくんの二人っきりだよ」 「えっ…」僕はうろたえた。 「6時まで帰ってこないってさ。だから今、ユキオくんが桃になにかエッチなことしようとしても、誰にもわかんないよ。チャンスだよ」 いつの間にか桃はシャープペンを机の上に放り出していた。吸い込まれそうなほどに深く澄んだ桃の大きな瞳が僕を覗き込む。僕は早まる一方の鼓動を抑えるのに必死だった。 「何マセたこと言ってんだ、中坊の分際で。毛生えそろってから出直して来い」と僕は精一杯余裕あるふりをした。しかし僕のそんな三文芝居は桃の前では当然通用しない。 「毛?毛なら生えそろってるもん。なんなら見てみる?」桃は無邪気な顔してスカートの裾をひらひらと振って僕を挑発する。 「ば、馬鹿なこと言うな!」僕は怒鳴った。 「あ、赤くなってる。カワイー」桃がくすくすと笑う。 僕が中学生の教え子に襲いかかることなんて出来ない小心者だと、桃は充分心得ているのだ。僕はなんだかむしょうに腹が立ってきた。 「いつもいつもそうやって大人をからかって遊んでるんだな」と僕は低い声で言った。本気で怒っている時の声だった。コドモ相手に本気で怒るなんてとは思ったけれど、もう止まらなかった。僕は堰を切ったように喋り出した。 「勉強なんかしたくない、って君の気持ちはよくわかる。僕だって、もし自分が家庭教師なんか付けられて勉強させられる羽目になったらと思うとたまらなくイヤだよ。その点では君に同情すらしている。だけど、自分の不幸を理由に他人をないがしろにしたり傷つけたりしても許されると考えているのなら、君はとんだお子様だ」 「…」 「僕はお姫様のストレス解消のために召し抱えられた従者じゃない。勉強を教えて欲しいと言われて、頼まれてここに来ている家庭教師だ。君に勉強する気がないのならもう僕がここに来る理由はない。君のお母さんに言って、次からはもう来ない」 ついに言ってしまった。 桃は今にも泣き出しそうな震える瞳で僕を見ている。僕は猛烈に後悔した。中学生相手に何を大人げないこと言っているんだ、僕は。これでせっかく見つけた高時給のバイトもクビだ。最悪だ。 それでも中学生に手を出して新聞沙汰になるよりは幾分マシか。と僕は皮肉な笑いを浮かべて立ち上がった。そして部屋を出ようとする僕の背中に、桃が泣きついてきた。まったく予期せぬ事態だった。 「ごめんなさい!桃が、桃が悪かったの、あやまるから行かないで!」 「…」 背中越しに桃の暖かな涙が染みてくるのがわかった。桃はもう赤ん坊のようにわんわん泣き出してしまっていた。 「桃、ユキオくんのこと好きなの…大好きなの… でもユキオくん、桃のことオンナとして見てくれないから… だからつい、イジワルしたくなっちゃうだけなの… ごめんなさい、ユキオ君が嫌ならもうイジワルしないから、ちゃんといい子にして勉強するから、だから行かないで。先生やめないで」 「桃ちゃん…」 僕を行かせまいと懸命にしがみついている桃の小さな身体を、僕はそっと抱きしめた。桃の栗色の髪の毛はやっぱり甘い果物の香りがした。 僕はいち教師として桃の気持ちにどう答えてあげればよいのか、まるでわからないけれど。 とりあえず、ユキオくんではなく雪男「先生」と呼ばせるところから始めてみよう。 |