第二十八回
「クリスマス・ケーキと戦争の終わり」

  クリスマス・イルミネーションが見たいと人を街へ連れ出しておいて、ろくに見もしないうちから帰ろう帰ろうと騒ぎ出す。いつもの君のパターンだった。
「だってこんなに寒いとは思わなかったんだもん」だって。ものすごく寒いよ、と何度も忠告したじゃないか。相変わらず人の話を聞かない奴だ。
  仕方ないので予定を繰り上げて、僕らは少し早い晩飯を食べることにする。7時前ということもあり、レストランは満席に近い状態ながらもまだなんとか座る余地があった。僕らは暖房の温風に生き返る心地で座席に座り、料理を頼んだ。料理はさんざん待たされた上にたいして美味しくなかったが、二人ともあまり口をきかずに黙々と食べた。せっかくの21世紀最初のクリスマス・イヴを、つまらない口喧嘩でこれ以上ひどい思い出にしたくなかったからだ。

  駅前の商店街に出て夜空を仰ぐ。星一つ見えない曇り空だった。下手すると雪が降るかもしれないな、と僕は白い息を立ち上らせつつ考えた。手のひらが千切れそうなくらいの寒さだった。
「ねえ、せめて美味しいケーキ買って帰ろうか」
  と君が僕にくっつきながら言った。甘えてくっついてきたというよりは、寒さを凌ぐためにしがみついたという表現のほうが近いだろう。君は僕の手のひらを取り、自分のコートのポケットにしまいこんだ。僕はされるがままに任せていた。
「そこの裏通りにさ、よくテレビとかに出てる有名なケーキ屋あるじゃない? そこで買おうよ」
「えーっ…」
  僕はあからさまに嫌そうな顔をして渋った。「きっと高いよ。それにこの時間じゃもうやってないかもしれないよ」
「うーん、とりあえず見てみようよ。だめならいつものとこで買えばいいんだしさ」
  犬の散歩よろしくぐいぐいと僕を引っ張って歩く君。こういう時の行動力だけはある。

  裏通りの洒落たケーキ屋は閉店時間寸前で、最後のケーキを求める人々でレジに行列ができていた。僕は顔を歪めたが、君が一度言い出した以上は逆らっても無駄と覚悟を決めて最後尾に並んだ。
  ケーキ屋の店内は品の良いクラシックのクリスマス・ソングがかかっていた。ゆっくりとしたテンポの「ホワイト・クリスマス」が終わった後にかかったのはジョン・レノンの名曲「Happy Xmas(War is over)」だった。僕は退屈しのぎにしばらくそのメロディに耳を傾けていた。

『 War is over, if you want it, War is over now 』

  『戦争は終わった』、か。
  僕は自嘲気味に鼻を鳴らした。そしてこう思った。ジョン、戦争は終わってないよ。 こうしている今も遠い中東の地では相変わらず人と人とが殺し合ってるんだ。人間というのは本当に愚かな生き物だ、とつくづく思うよ。それにほら、遠い遠い国で親を殺された子供たちが泣いているこんな時にでも、僕らはまるで関係ない顔してこんな所で流行のケーキを求めて行列作って金と時間を無駄に使ってる。これが現実なんだよ、と僕は天国のジョンに心の中で喋りかけた。僕は無力で、ましてや手の届かない遠い国の人々のために出来ることなんて何一つなくて。いまの僕にできることといったら、せいぜい目の前にいるこの大切な彼女の機嫌を取って喜ばせてやることだけなんだよ。そして僕にとってはそれが一番大切なことなんだよ。どうかこんな僕を笑ってやってくれ。なあジョンよ――



  20分待たされたあげくに残っていたケーキは妙な色をしたブルーベリーのケーキだけだった。あとはドーナツだのシュークリームだのプリンだのばかり。仕方ないので僕らは黒ずんだ紫色のブルーベリーのケーキを2つと、不味かった場合の押さえとしてドーナツを2個買った。千円に近い予定外の出費をしてしまった。僕らは暗澹たる気分で家路についた。

「とりあえず、食べてみないとわかんないよ。ねっ、ユキオ君」
  ロウソクの炎を吹き消した後で、君が心配そうに僕の顔を覗き込む。さすがに君なりに反省してるんだろう。すぐに忘れてしまうにしても、素直に反省できるというのはいいことだ。君の数少ない美点の一つだね、という言葉がこぼれそうになって慌てて口を塞ぐ。つまらない冗談でこの雰囲気を壊したくなかったのだ。僕らは目と目で頷きあった後、恐る恐るブルーベリーを乗せたフォークを口元に運んだ。

「…美味しい!!」

  少しの間をおいて、君が叫んだ。それくらい本当に美味しいケーキだった。質の良い生クリームとブルーベリーのそのままの甘みだけで作られているのだろう、甘さにまったくクセがない。今までに食べたどんなケーキより美味い、と自信を持って言いきれる味だった。多少の不味さは覚悟していた僕らにとって、これはまったくの嬉しい誤算だった。
「ほんとだ、美味しいね」と僕も言った。
「ね、みんなバカだね、こんな美味しいの残してわざわざ違うの先に買って帰ってさ」
  君は嬉しそうにはしゃいで言った。「あたしたち、すごくついてる」
「そうだね、ラッキーだったね」と言う僕に君は飛びかかるように抱きついてきた。そして「えへへ」と笑って、こう言った。


「今年もまたこうしてユキオ君とクリスマスを過ごせる…あたしはそれだけで嬉しいんだよ。
あたしは、すごくついてる。すごく幸せ者だって、いつも思ってるよ」


  僕もだよ、と君の肩に埋もれながら僕は呟いた。
  僕もだよ。僕も、すごくついてるよ。君とこうして何事もなく厳かなクリスマスを過ごせる、これ以上の幸せなんかこの世にあってたまるかってんだ。君が幸せだと言ってくれるなら、それだけで僕はこの世界にほんの少しだけでも貢献したんだって自信を持って生きていけるんだよ。僕はそんなことを考えながら、君がスパークリングワインの蓋を開ける布巾を求めて台所に走る間にケーキ屋で聴いたあの「Happy Xmas(War is over)」を何げなく口ずさんでみた。

  そう、今夜はクリスマス。
  弱い人々、強い人々、富める人々、貧しい人々。
  この世界は本当に間違っている――だけど。

  とにかく今夜は、ハッピー・クリスマス。


→第二十九回へ進む
←テクスト集に戻る