最終回
「クリスマス・イブと二人の未来」(前編)

 満員電車の隙間を縫うように腕を振り上げ、携帯メールの着信内容を確認する。「改札前で待ってる」との内容だった。ついでに携帯に表示されている時間を見ると、時間は7時を少し回っていた。もう外は真っ暗だった。


 何の前触れもなく三日前に突然決まった、ゼミのクリスマス親睦会。これがクリスマス・イブでなく、しかも君の誕生日でなかったのなら僕も喜んで出かけていったのかもしれないけれど。せっかくのイブ、君を失望させてまでは行きたくなかったのだ、僕だって。しかしゼミの教授には就職の推薦をもらった恩義があった。女の子と約束があるから非参加、というわけにはさすがにいかなかったのだ。でも君はそんな僕の立場や事情をちっとも理解してくれない。仕方ないので「なんとか切り抜けて夕方には帰るよ」と言ってなだめすかしたのだが、やはり会合というのはそう簡単に抜け出られるものではなく。地元の駅まで辿り着いたのは結局こんな時間、7時になってしまったのだった。君の仏頂面が目の前に浮かんでくるようだった。


 改札を小走りで通過し、辺りを見回す。でも君の姿はどこにもなかった。携帯には改札前にいると送ってきたのに…まさか怒って帰ってしまったのだろうか? 僕は慌てて駅のターミナル広場前に飛び出した。そして再び辺りを見回すと君はすぐに、意外な場所で見つかった。君は改札前の伝言板の下に、体育座りでうつむきながら座りこんでいた。それは奇しくも三年前、僕が初めて君と出会った時とまったく同じ姿だった。道行く人が皆見ているのもまったく気にせずに、ひたすら無言で座り続ける君。その行動がどういう意味を持ったパフォーマンスなのかが理解できず、僕は君の前に立ちすくんだままなかなか口を開けずにいた。先に君が言葉を発した。

「あなたへの抗議のつもりでここに座り込んだつもりだったんだけど」

「だけど?」と僕は言った。
「そのうちにね、思い出してきちゃったの。
三年前、ここにこうして座ってた時のあたしが抱えてた不安だとか、孤独だとかのこと」
「そんなもん思い出してどうするのさ」と僕は手のひらを差し出した。「なんでもいいからとりあえず立ちなよ。みんな見てるよ、恥ずかしい」
 でも君はすぐには立ち上がらず、僕の差し出したその手のひらをしばらくの間じっと眺め続けていた。そして何を思ったか突然、寒風で冷え切った頬を僕のその手になすりつけてきた。


「この手があたしを救ってくれたんだよね」

 君は目を閉じたまま続けた。「この手があたしを起こしてくれたんだよね。
ありがとう。きっと一生感謝しても足りないくらい、感謝しなきゃいけないことなんだよね」
「なんだよ、今さらそんなこと」
 僕は気恥ずかしさで顔を赤らめながら言った。「ほら、とりあえず立ちなってば」
 君はようやく僕の手のひらに掴まりゆっくりと立ちあがった。僕は後ろに回って汚れたコートの裾を払ってやり、手を繋いで歩き出そうとする。が君はなかなか動き出そうとしない。
「どうしたのさ」と僕は言った。
 君はうつむきながら答えた。
「…ユキオ君、ここを出て独身寮に入りたいんでしょ? あたしに遠慮なんかしないでさ、行きなよ」

(後編に続く)

最終回
「クリスマス・イブと二人の未来」(後編)

(前回の続き)

「…どうして知ってるの?」僕は驚きを隠しきれず言った。
「悪いとは思ったんだけど、聞いちゃったの。こないだ電話で誰かと相談してるの」
 君は続けた。「なにも永遠の別れってわけじゃないし…住む場所が別々になるってだけでしょ? どこにでもある、普通の恋人同士の形に変わるだけだよ」
「…君がそんなこと言うなんて意外だな」と僕は言った。「行っちゃやだ、って泣きわめくかと思ってたよ」
「泣きわめいてどうにかなるなら、泣きわめくけど」と君は答えた。「ユキオ君だって来年は社会人になるんだもんね…いろんなことをきちんとしなきゃいけない時期だってことくらい、あたしにだってわかってるもの。だから、あたしのことは気にしないで行って。あたしなら平気。今ならもう、一人でだって生きていけるよ」
「ほんとに?」と僕。
「ほんとに」と君。

「でも僕は一人じゃ生きていけないよ。君がいないと僕はもう生きていけない」

 僕がそう告げた途端、君の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「あたしだって」と君は喉を詰まらせながら言った。「あたしだって生きていけないよ。ユキオ君が側にいてくれなきゃ、一人でなんて生きていけないよ」
「だったら最初からそう言えばいいのに。無理しちゃって」
 僕はくっくっと笑いながら君の手を引っ張った。君はコートの袖で涙を拭いながら歩き始めた。袖口にはみるみるうちに染みが広がっていった。
「安心しなよ、独身寮の話はとっくの昔にもう断ってるよ。ちょっと遠いけどまあしょうがないね、当分の間は会社はここから通うさ」
「ちょっとったって片道一時間半でしょ? だめだよやっぱり…」
「世のサラリーマンの中にはもっと遠い人だっていっぱいいるさ。一時間半ごときで遠いなんて言ってたら怒られちゃうよ。そんなことよりさ、言う予定が多少早くなっちゃったけど」
 駅前の大交差点の信号が青に変わる。僕らは手を繋いで再び歩き始めた。
「社会人になってからしばらくの間は、なるべく無駄遣いしないようにしてお金を貯めよう。二人で暮らせる大きな部屋を、向こうで捜すんだ。それで無事引っ越しの目処がついたら、その時は」
「その時は?」と君が聞き返した。僕は息を大きく吸って、やがて答えた。


「結婚しよう。
これからもずっと、ずっとずっと二人で一緒にいよう」


 そこで君の足がぴたりと止まった。信号を渡る人の群れが後ろからぶつかって、君がよろよろと倒れそうになる。僕が慌てて支えてやると、その腕には君の瞳から溢れた涙がこぼれ暖かい感触が伝わった。
「…ばか」と君は言った。「せっかく今朝、これから一人で暮らしていく決意を固めたばかりなのに。台無しになっちゃったじゃない」
「ごめんよ」と僕は言った。
「責任取ってくれる?」と君は僕の胸に顔を埋めて言った。
「取るよ」と僕は答えた。「死ぬまで君のワガママにつき合うよ。だからもうこれからは、一人でどうこうするなんて言わないで。ずっと僕の側にいて」
「うん」と君は小さく頷いた。
「…そういえばまだ言ってなかったね。メリー・クリスマス」と僕は言った。
「メリー・クリスマス」と君は答えた。
 信号が赤に変わり車が流れ出しても、中央分離帯の上で僕らはいつまでも抱き合っていた。そこは僕らにはまるで二人のために神様が用意してくれた特別な場所のように感じられたのだった。


←テクスト集に戻る