第二十六回
「花火とカブトムシと君の初恋」(前編)

  飛行機に乗るのはこれで三回目だった。
  一回目は小学二年生の時、母方のじいさんの葬式の時。二回目は中学一年生の時、父方のばあさんの葬式の時。二回とも葬式だったのか、と考えてみて僕は少し嫌な気持ちになった。せっかくの君との、初の飛行機旅行なのに。申し訳ないような気持ちで隣の座席で出発を待つ君の横顔をちらりと覗き込んだ。君は無表情で窓際に頬杖をついていた。その横顔からでは、いま君がどんな気持ちで出発を待っているのか僕にはわからなかった。


  お盆に帰省しよう、と言い出したのは僕だった。
  君は何も言わずすごく悲しそうな顔をしたけれど、でも、僕は引かなかった。この機会を逃したら、次はいつになるかわからなかったからだ。だから僕は半ば強引に飛行機のチケットを取ってしまい、その後で君の説得にかかった。君は最後まで抵抗したけれど、最後には僕の考えを理解してくれたみたいだった。これからの僕と君のために、どうしても済ませておかなければならないこと。家族との断絶した関係を修復した上で、二人の生活をきちんと認めてもらうこと。それで君がしぶしぶ実家に電話を入れ、こうして僕らは君の生まれた街に初めて二人で向かうこととなったわけだ。

  正直、僕は緊張していた。ある程度電話で説明はしておいてあるとはいえ、向こうの両親にしてみれば僕は大事な娘を手込めにして家に返さない不届き者であることは間違いのない事実なのだ。もしかしたらひどい罵声を浴びせられるかもしれない。金輪際娘に近づくな、と言って放り出されるかもしれない。君もそれを恐れるからこそ、僕を実家に連れていくことを嫌がったのだ。
  でも、僕だってこう見えても男だ。修羅場の一つや二つの覚悟はできていた。
  緊張して上手く喋ることなんてできないかもしれない。だけど、精一杯の言葉で、僕がどれだけ君を愛し必要としているか。それを説明すれば、きっとわかってくれるはず。それを信じるしかないだろう。



  飛行機が羽田空港を発ち、窓の下が一面の雲になる。君はそんな白の雲海を見つめながら、不意に呟いた。

「お父さんは、まだあたしを許してないみたい」

  僕は君の憂いを含んだ横顔をじっと眺める。
「だろうね」と僕は言った。「家を飛び出して帰ってこない娘を笑って許す父親なんか、この世にはいないよ。怒られて当たり前だ」
  君は何も言わず窓の外を見つめ続けていた。
「でも、だからこそ」と僕は続けた。「怒られに帰らなきゃ、何も始められないんだよ。君と、僕の、二人で怒られよう。二人で謝ろう。二人で許してもらおう。この旅はそのための旅なんだって、まだわかってもらえないのかな」
  僕は返事を求めて君に視線を投げかけた。しかし君はそれに反応一つ見せず、黙って外を見つめ続けていた。返事なし。やれやれ、と僕が座席のシートに挟んだ雑誌に手をかけようとしたその時、君の瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。僕は雑誌に手を伸ばしかけたままの体勢で、しばらくの間君を見つめていた。
「…ごめんなさい」と君は言った。

「あたしが全部悪いのに。あたしが全部しでかしたことなのに。後始末を先送りにし続けて…結局こうして、ユキオ君にまで迷惑かけちゃった。ほんとに、ごめんなさい」

  僕は泣きじゃくる君の瞳に指をかけて拭ってやった。僕は君の横顔を抱きしめ、優しく頬を撫でながら言った。
「迷惑なんかじゃないよ。迷惑なんかじゃない」
  ワイシャツに染み込んでくる君の涙はとても温かかった。
「仲直りできるといいね。僕も精一杯謝るのに協力するから。二人で頑張ろう」
  君はぐしゃぐしゃになった顔を上げて、言った。
「うん」

  長い一時間半が過ぎ、飛行機は予定通り帯広空港に着陸した。
  帯広の夏の空は抜けるように青く澄んでいた。
(後編に続く)

第二十六回
「花火とカブトムシと君の初恋」(後編)

  夕風が君の浴衣の裾を小さく揺らす。僕は履き慣れない草履に転んでしまわないように、階段を登る君の腰を取り支えてやった。君はありがとう、と言ってよたよたと登っていった。


  心配していた家族との和解はこれ以上はないというほどにあっけなく終わってしまった。追い払われるどころか、大歓迎で迎えてくれたのである。これには最悪の修羅場を覚悟していた僕らもいささか拍子抜けしてしまった。向こうが先に頭を下げてきたので、慌てて頭を下げ返したくらいだ。娘を預かっていてくれてありがとう、とまで言われた。これにはさすがに僕も何と返事してよいものか困ってしまった。
  君に良く似ている、笑顔の優しい母親だった。父親も気むずかしそうな人ではあったが、話しかければきちんと温かい言葉で返事を返してくれる人だった。過去がどうだったかは知らないが、少なくとも僕がその日触れた限りにおいてはとても素晴らしい家庭だった。きっと娘が出ていったことで、思い直した部分もあるのだろう。
  最初は言葉少なかった君も時間とともに表情が和らぎ、最後には母親と冗談を飛ばし合うまでになっていた。これならもっと早く帰ってくればよかった、そういう表情で君はときどき僕のほうを見て気まずそうに苦笑いしていた。そして君は母親がわざわざ用意してくれた浴衣に涙ぐみ、僕らはこうしていま君の思い出の場所に散歩に来ているのだった。十勝川では今日はちょうど花火大会の日らしい。神社の高台には花火を見物に来ているのであろう人々がかなり集まってきていた。

「いいところだね」と僕は言った。「時間が流れていないみたいだ」
「それって、田舎ってこと?」と君は笑った。
「まあそうよね。ぜんぜん変わってないもの、この街」

  僕らは神社の裏手のほうまで歩き続けた。広いわりにひっそりとした神社だった。境内の裏手の奥は林のようになっていて、そこには人は一人もいなかった。浴衣姿の君は注意深く綺麗な段を選びつつ、階段に腰掛けた。陽の落ちた薄暗い林ではヒグラシの悲しげな鳴き声が微かに響いていた。


「あたしの初恋の男の子はね、いつもここでカブトムシを探していたの」


  僕は髪を揚げた君の綺麗なうなじにしばらく見とれ、やがて君の隣に腰を下ろした。冷たい石の感触が尻に伝わった。

「幼なじみだったあたしはいつも彼の虫かごを持つ役で。今日もいなかった、今日もいなかったと言って土まみれで残念そうに帰ってくる彼を見るのが大好きだった。北海道の、特にこの帯広の街にはカブトムシなんかいないって、何度言っても聞かない頑固な男の子。そういう子供っぽいところも好きだったな。うん、大好きだった」

  少し強くなってきた夕風に、君はそっと手で髪を押さえた。たったそれだけの仕草が妙に色っぽくて、僕はどきどきした。なんだかいつもと少し違う君。それは浴衣のせいだけではないはずだ、と僕は思った。
「結局、彼はカブトムシを追い続けたまま、少年のままでこの世から消えてしまって」と君は続けた。「後には宙ぶらりんのままのあたしの気持ちだけが残った。それからずっと、あたしは人を愛するということができずにいたの。なんとなくつきあってみた人はいた。この人好きだな、って思えた人も何人かはいた。でも、そこまでだった。彼の死によって、あたしはすっかり臆病になっていたのね。結局誰のことも信用していなかったあたしは、知らず知らずにたくさんの人を傷つけてしまっていたみたい。そのことに気がついたときには、もうあたしはこの街を飛び出していたわ」

  僕は立ち上がって、尻についた埃を払った。そして辺り一面の木々を眺めた。いかにも何か昆虫が潜んでいそうな、鬱蒼としたクヌギ林だった。僕は少し背伸びして、それからゆっくりと歩き始めた。君も立ち上がって僕の後をついてきた。
「君の口から昔の男の話が出たのは初めてだな」と僕は言った。
「ん、そうだっけ?」と君はとぼけてみせる。
「そうだよ、初めてだ」
「あれ、ひょっとして妬いてるの?」とおどけた声で僕の前に回り込む君。
「別に」
  君はにこっと笑って、僕の拗ねたような顔を覗き込んだ。
「あたしはユキオ君のそういうところも好きだよ」
  君は僕の目をまっすぐに見据えて、言った。


「ユキオ君が、あたしを変えてくれたんだよ。
人を好きになるってどういうことなのか、そのほんとの意味を教えてくれたんだよ。
ありがとう。なんべん言っても足りないね。
いつもそばで支えてくれていて、ありがとう。愛してる。心から愛してる」


  僕は君の小さな背中をぎゅっと抱きしめた。浴衣の布が柔らかく沈む感触がした。
  君は僕にしがみついたままの姿勢でじっと動かない。しばらくの間そうして抱き合っていた後、夜風に木々がざわめく音を聞き僕はそっと顔を上げた。そのときだった。
  月明かりに照らされた林の奥で、一本のクヌギの木に何か黒い点のようなものを僕は確認した。細長い棒状の突起物。あれは角だ、と僕は一瞬で推理した。
「ねえ、あそこにいる虫、ひょっとして」と僕は言った。君は僕の胸から顔を上げ、指差す方向に目をやった。
「え、どれ?」
「ほら、あそこ」
  僕の指差す方向をしばらくきょろきょろしていた君の目も、ようやく目標を捕捉したようだった。ここからでは少々見づらいけれど、確かにカブトムシの形をしている。
「そんな、いるわけないのに」と君は興奮気味に言った。
「最近になって出るようになったんじゃないかな。ペットショップから逃げた、とかで繁殖して」
「だけどそれにしたって、これまで一匹もいなかったものが今、見つかるなんて…ううん、そんなはずない。きっと何か違う似た虫じゃないの?」
「あんな角のある虫なんか他にいるはずないよ」と僕。
「うーん、とりあえずここからじゃわかんないから、ちょっと捕まえてくるよ。ここで待ってて」
「あ、うん、気をつけてね」と君は言った。そして僕は茂みをかきわけて、林の中に入っていった。
  思ったより雑草が高く伸びていて、視界が悪い。僕は草で手を切ってしまわぬよう慎重にルートを選びながら、目標の木まで近づこうとした。少々の迂回をし、ようやくあと少しで念願のカブトムシの姿を拝める…というまさにその瞬間。ドーン、という叩きつけるような轟音が地面を揺らす。激しく驚いた僕の耳に今度は続けざまにドーン、ドーンと二発の砲音が木霊する。それで僕はようやく思いだした。そうだ、今日は花火大会だったのだ。
  そしてふと夜空を見上げると、黒い謎の昆虫が飛び去っていくのが視界に映る。まさか、と思って走り寄ったときにはもう遅かった。例のクヌギの木にはもう虫は止まっていなかった。花火の轟音に驚いたのは僕だけではなかったのだ。
  僕は林の外で待機している君を振り返った。見た? と僕は目でうながした。見た、という具合に君は小さく頷いた。
「逃げちゃったね。残念」と君はたいしてがっかりもしていなさそうな声で言った。
「もっと早く近づいてれば良かった。ごめん」と僕はしょんぼりして言った。
「ううん、なんで謝るの」と君は優しく笑った。「いいの。これでいいの」

  十勝川の方向からは花火の打ち上げ音が何度も何度も続いていた。僕は暗い林の中で一人佇んで、外で待っている君とじっと見つめ合っていた。やがて君の口が何か小さく動いたけれど、それはちょうどタイミング悪く打ち上がった花火の轟音にかき消されて聞こえなかった。だけど不思議と僕にはその言葉の内容がなんだったのか、はっきりとわかった。だから僕はその内容を復唱するように、君に向かって叫んだ。

「戻ろう。花火の見えるところに行こう」



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