第二十五回
「春風邪と手のひらと君の体温」

  荒い吐息が痛々しく部屋に響き渡る。僕はほかほかに暖まった濡れタオルを君の汗ばんだ額から外し、洗面器に漬けて冷やした。脇の下から取り出させた体温計の数値は相変わらず38度のままだった。
「ごめんね、迷惑かけちゃって」と君は辛そうな表情で言った。
「何言ってんだ、こういうとき助け合うのは当たり前」
  絞った濡れタオルを再び君の熱い額に乗せながら、僕はちらりと時計を見た。もうすぐ12時、日付が変わって月曜日になろうという時刻だった。明日の朝には当然、二人とも仕事が待っている。
「ねえ、解熱剤取って」と君はかすれた声で言った。「明日にはバイト出れる身体にしなくちゃ」
「バイト?」僕は怪訝そうな顔で答えた。「バイト行こうなんて考えてたの? 馬鹿、行けるわけないだろ。風邪ひいたから休むって今電話しなよ」
「無理よ、穴開けられない。人足りてないし」
「駄目、休め」
「無理、行く」
「駄目」
「行く」
  そんな押し問答を何度か続けたあげく、君はようやく諦めて受話器を取り電話を始めた。案の定、電話はあっさりと片がついたようだった。チームの仕事というのは一日くらい人が一人足りなくてもなんとかなるものなのだ。休む当人が感じる責任ほどは実際の現場は困らない、そういうものだ。でも君はまだ納得できない、といった表情で電話を切って布団に舞い戻る。
「もう寝る。解熱剤は?」と君は言った。
「何言ってるの、明日一日休んでるなら解熱剤は飲んじゃ駄目だよ」と僕。
「えっ、何で?」
「熱を下げると治るのが遅くなるから。風邪で熱が上がるのは身体がウィルスの撃退力を高めるためだからなんだよ。早く治したいなら熱は下げちゃいけないの」
「えーっ、そうなの?」君が驚きの声をあげた。「風邪のせいで熱が上がるから、薬飲んで下げなきゃいけないんじゃないの?」
「違うよ、馬鹿」と僕は君の頭を軽く小突いた。「風邪が上げてるんじゃなくて、君の身体が自分から熱を上げてるの。今君の身体の中では熱でパワーアップした白血球が必死でウィルスと戦ってるわけ。邪魔したらいけないよ、さ、早く寝なさい」
  しかし君の瞳は知的好奇心を満たされた直後できらきらと輝いていた。そうだった、こいつはこういう雑学小話みたいなのが大好きだったんだっけ、と僕は思い返した。クイズ番組を見ればいちいちテレビに答えを叫ぶタイプだ。
「そっかあ、あたしの中の白血球たちは今パワーアップして戦ってるんだ」と君は胸に手を当てて言った。だらしなく開かれたピンクのパジャマの胸元からその小さな膨らみがちらちらと覗き、僕は少しどきっとした。病人に向かって変なことを考えるなんて。どうかしてる。
「そう、だから早く寝なさい」と僕は早口で言った。
「うん、じゃあもう寝るけど」と君はしぶしぶ答えた。しかし急に思いついたように手のひらを僕の顔の前でひらひらと踊らせると、

「ねぇ、じゃあ、あたしが眠ってしまうまで、手を握っててくれる?」

  と、言った。
  僕はその手をそっと包むように握ると、その場に座り込んで楽な姿勢を取った。仕方ない、病人のわがままだ。とことんまで聞いてやるか。僕がそんな覚悟を決めると君はゆっくりと瞼を閉じ、そしてこう言った。


「ユキオ君に触れられてる間はいつも、あたしの体温は上がりっぱなしなの。
あたしの中の白血球だっていっぱいパワーアップするわ、きっと」



  あっという間に寝息を立て始めた君の手のひらを握り続けたまま、僕は思った。
  僕のこの手のひらが君の身体をパワーアップさせることができるというのなら、一晩中だって握り続けていてあげよう。君のために何かしてあげられること、そのことが僕をパワーアップさせてくれるんだ。生きていくための力をくれるんだ。

  君のためにできることがある。それが僕の幸せ。


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