第二十二回
「自転車と肉まんと君の笑顔」

  「自転車が欲しい」と言いだしたのはそもそも君なのに、僕は君が自転車を漕いでいる所を一度も見たことがない。「買い物行くのに楽でしょ?」って、冗談じゃない。楽になるのは僕の後ろに乗る君だけじゃないか。いつもいつも重い荷物と君を積んだ自転車を漕がされる僕の身にもなってほしいものだ。
  しかし君は僕のそんな苦労をわかっているのかわかってないのか、今日もまた気楽な笑顔で「自転車出して」などと言い出す。僕はあからさまに嫌そうな顔をする。今日は特に風が強く、真冬を思わせる寒さだったからだ。そりゃ後ろに乗るのが専門の人間は寒さなんて気にならないだろうが、寒風をまともに浴びなければならない漕ぎ手の気持ちを少しは考えてくれないものか…なんてことは当然気の弱い僕に言い出せるわけもなく、結局僕は君の言うなりになって自転車に向かうのだった。


  いつものスーパーマーケットの中を巡回する僕ら。カゴを持たされるのは当然のように僕である。君はまるで雛に餌を運ぶ親ツバメのように、ちょこまかとどこかから食料やら日常用品やらを運んできては僕のカゴに放り込んでいく。だんだん重くなっていくカゴを一人で持たされていると、なんだか罰ゲームを受けているみたいだよなといつも思う。が、そんなことは当然君には言わない。「じゃああたしが持つわよ」、なんてムキになって怒るのが目に見えてる。

  レジを終え重い袋をぶらさげて外に出ると、もう日はすっかり沈んで冷たい夜風が吹き荒んでいた。家までの10分、また拷問に耐えねばならないのかと思うと漕ぎ出す前から気が重かった。というのも、帰り道の最後の直線には長い長い商店街の登り坂が控えているからだ。僕の脚力と体力的に、全力を振り絞ってなんとか登り切れるといった坂だ。3回に2回は途中でへたっていつも君に降りてもらうことになる。が、今日はなんだか意地でも登り切ってしまいたい気分だった。なぜだか知らないが、どうしても「疲れたから降りて」なんて弱音を吐きたくなかったのだ。それで僕は呼吸を整え気合いを入れると、勢いよくペダルを回し充分な加速をつけて坂の入り口に飛び込んで行った。
  ぐんぐんと夜の商店街を駆け登っていく僕らの自転車。しかしその勢いも最初だけで、坂の中腹にさしかかる頃にはすっかり減速しきってふらふらと前輪が泳ぎだすことになる。ここからはもう己の脚力だけが頼りだ。上り坂はペダルを漕ぐリズムを崩したらもう一巻の終わり。回転周期が一定のペースを割った途端にそこで止まってしまう。どんなに辛くても漕ぐ力を休めることは許されない。僕はもう血管が千切れそうなほどの全身全霊の力でただひたすら漕いでいた。寒風も忘れるほど汗が吹き出てくる。そしてもう気力だけを推進力にしてなんとか進んでいるという状態になった頃、ようやく待ちこがれた坂の頂上が見えてきた。ところが、僕がゴール目前のマラソンランナーのごとく最後のスパートにかかろうとするまさにそのとき君がぼそっとこう呟く。

「悪いんだけどさ、ちょっとそこのコンビニ戻ってくれない?ウーロン茶買うの忘れたみたい」

  僕は一瞬で全身の生気を全て奪い取られた気分で自転車を止めた。もう一メートルたりとも漕ぐ力は残っていなかった。
「このままバックしてよ。下りなんだから楽でしょ?」と君はにこやかに言った。
  そりゃ下りは楽だよ。楽だけど…、と言おうとして、その先の言葉がうまく続きそうになかったので結局言わなかった。君に文句を言って何かが解決するとも思えなかったからだ。だから僕は何も言わずそのまま坂の中腹に引き返し、コンビニの中に消えていく君を疲れ果てた目で見送った。
  君を待つ間に、僕は汗まみれになったパーカーの袖を捲る。暑くて暑くて気が狂いそうだった。どうにも肉体的な疲れよりも精神的な疲れのほうが大きいようだ。何しろゴール目前で「引き返そう」と言われたのだ、気が抜けないほうがおかしいだろう。
  別に一息に登り切ったところで君に誉められるわけでもない。そんなのはただの自己満足だ。「疲れたから降りて」と頼めばたぶん君はすんなりと降りてくれただろう。だけど、そんな情けないこと言いたくないじゃないか。好きな女の子に格好悪いところなんか見せたくないに決まってるじゃないか。そういう男心を少しは察しようという気持ちは君にはないのだろうか?どうにも納得がいかない。これじゃ一人で無駄に頑張ってる僕がただの馬鹿みたいじゃないか。…なんて僕がハンドルの上に顎を乗せてぜいぜいと息を切らしていると、後ろから君の「ユキオくーん、こっち向いて」というおどけた声が聞こえてくる。
  振り向こうとする僕の頬に、柔らかなクッションのような感触が伝わった。僕は驚いて後ずさりする。君が僕に差し出していたのはどうやらコンビニで買った肉まんのようだった。

「えへへ、肉まんなんか一年ぶりだったからつい買っちゃった。
ユキオ君はピザまんとカレーまん、どっちがいい?」

  左右両手に一つずつの饅頭を差し出し、にこにこと微笑む君。その笑顔を見せられたらもう僕の負けだ。僕の疲れも、男の意地やら何やらも、全てはどうでもいいことのように思えてくる。そんなことよりは、今ピザまんを取るかカレーまんを取るかの選択のほうが僕にははるかに大事なことだ。僕はさんざん迷ったあげくにピザまんを選択し、君の手から温かなその饅頭を受け取った。君は僕が受け取ると同時にもうカレーまんに囓りついていた。君の口元から美味そうな匂いと湯気が立ち上る。僕も後を追うように急いでピザまんに囓りついた。
「おいしいねぇ」と君が口をもごもごとさせながら言った。
「おいしいねぇ」と僕も言った。そう、一年ぶりの肉まんは本当に美味しかったのだ。疲れが吹き飛ぶ思いだった。

  僕は目の前に止めてある自転車に目をやり、坂の残りは押して二人で歩こう、と決めた。だって、もう意地張ったってしょうがないもんな。君が気がついてくれない男の意地なんて、張るだけ無駄だよね。



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