第二十一回
「君の涙と本当の夜空」

  君がベランダで夜空を見上げる時は故郷が恋しくなっている時だ、ということを僕は知っている。だけど僕はそんなときの君にかけてあげるべき言葉がなんなのかそれがわからないから、しばらく一人にしておいた後に頃合いを見計らって「お茶が入ったよ」とか「面白いテレビやっているよ」とか、わざとらしい理由をつけて君を思い出の世界から連れ戻すことしかできない。だってそれ以外にどうすればいいってんだ?「故郷が恋しい?」なんて聞けるわけがないじゃないか。君が僕の元を離れてしまうかもしれない言葉を口にするなんて、僕にはできない。絶対にできない。
  だから僕は今日もこうしてベランダで夜空を見上げている君にいつものように「紅茶できたけど飲む?」なんて言いに来たのだけれど、君の横顔を見た瞬間に僕は言葉を失ってしまったのだった。なぜなら君が泣いていたからだ。

  君は僕に気がつくとすぐに袖で顔をぐじぐじと擦り、儚げに微笑してみせた。「大丈夫、気にしないで」という顔だった。だけどもちろん僕が気にせずにはいられるわけがない。そして愚かな僕はこんなときでさえ、心痛め泣いている君のために何て声をかけてあげたらいいのかさっぱりわからないのだ。


「智恵子は、東京に空がないといふ。ほんとの空が見たいといふ」


  突然、君が夜空を見上げて言った。僕は驚いて君を見つめた。
「『智恵子抄』だ」と僕は言った。有名な「あどけない話」の冒頭の部分だ。正解、と言わんばかりに君はにっこりと笑った。
「東京の夜空は明るすぎるのね。星が全然見えない」
  君は夜空を指差して、言った。
「智恵子にとって東京の青空がほんとの青空じゃないように、あたしには東京の夜空はほんとの夜空じゃないの。あたしのほんとの夜空は十勝川の河川敷の、ハルニレの木の下から見上げる夜空なの」

  東京の夜空は、ほんとの夜空じゃない。
  そう言われても、生まれてこのかた東京を離れたことのない僕には田舎の夜空がどれほど綺麗なのかなんてことはまるでわからない。君の知っている本当の夜空を、僕は知らない。君の生まれ育った街のことも僕は知らない、君の心がいまどこに居るのか、それすら僕にはわからない。これじゃ安心して君と暮らしていくことなんていつまで経ってもできやしないじゃないか、と僕は思った。君と最初に出会った日からもう一年が過ぎているというのに。そうだ、僕らは出会ってからもう一年も経っているのだ。一年も。

「一年前のこの季節、そう、ちょうど夜風が冷たくなってきた頃」と僕は言った。
  君はなあに、という表情で僕を振り向いた。
「改札口の伝言板の下に捨て猫みたいに座り込んで…ちょうど今みたいに泣いていた、君を見つけたんだ。覚えてる?」
  君はふっと笑って、言った。「もちろん覚えてるわよ。どうしたの、急に」
「今だから言うけど、あのとき僕はほんとは君のこと無視して通り過ぎようと思ったんだ。変な女の子だな、と思って」
「なにそれ、初耳だわ」
  君が身を乗り出して僕に迫った。僕は苦笑して続けた。

「でも通り過ぎようと決めたまさにそのとき、君の瞳から大粒の涙がぽろぽろと三滴、こぼれたんだ。
それは本当に、たとえ100メートル先からだって見つけられそうなくらい大きくて、綺麗な涙だった。だから僕はびっくりして思わず立ち止まってしまったんだね。そのこぼれ落ちていく涙の形を見た僕が真っ先に連想したのはそう、あの時もちょうど君の頭上に輝いていた三つの一等星、夏の大三角だったな」

  僕が指差した方向には夜空にひときわ輝く一等星デネブ、ベガ、アルタイルが大きく三角形を描いていた。それらはこの光害はなはだしい東京の空でも充分すぎるくらい強く、はっきりと明るく輝いていた。まるで誰かに見つけてもらいたがっているようにも見えるじゃないか、と僕は思った。「つまり」と君は言った。
「あたしがユキオ君に拾われたのは、ただの偶然だったのね?」
「さあ、どうかな」と僕は答えた。そして僕らは二人同時にぷっと吹き出してしまった。あの時のことはお互い思い出すにはあまりにも恥ずかしすぎる過去なのだ。そこで僕は気まずさついでにようやく言いたかった最初の台詞を、「そういえば紅茶を入れたまんまだったんだ。さ、部屋に戻ろう」という台詞を君に伝えた。君はこくんと小さく頷いて僕の後をついてきた。
  ベランダの窓の鍵を閉めながら僕はそうだ、今度君の生まれた街を見に行こうなんてことをふと考えた。君の知っているというほんとの夜空を僕も見てみたい。僕の知らない君の思い出の場所を余さず見て回りたい。君の両親にも一度正々堂々会って、話をつけておきたい。そういうことをきちんと済ませておかない限り、と僕は思った。僕らの不安はいつまで経っても消えやしないんだ。この東京の夜空を君が故郷の夜空だと思えるようになる日は来ないんだ。

「ねえ、この紅茶もう冷め切ってるよ。あたし、もういっぺん入れ直すね」

  キッチンから聞こえてくる君の声。薬缶の鳴く音に紛れたその声はまるで銀河系を跨ぐくらいに遠い遠い声だったので、僕は君の元に辿り着くのにどれだけかかるのだろうかなんて考えながらゆっくりと歩き出したのだった。



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