第十九回
「闇に降る雨」

「雨の降る夜は、嫌いなの」

  下り電車が過ぎ去ったあとの閑散とした改札口で、その小さな身体には不釣り合いなくらい大きな傘を開きながら君は言った。外は大粒の雨が降っていた。



  そもそも、80%の降水確率なんて天気予報も聞かずに飛び出していった僕が全面的に悪い。
  家に何本もある傘をまた買うというのももったいない話なので、仕方なく僕は大学近くにある友達の家に泊まる、と君に電話した。だけど君はあからさまに不愉快げな声で、「帰ってきて」と言った。自分が二人分の傘を持って、駅まで迎えに行く。だから、帰ってきてと。


「中学生のときね、やっぱりこんな梅雨どきに、お父さんが傘忘れてったことがあって。で、あたしは傘持って駅で待ってたのね」
  駅前のロータリーを走り抜ける車が水飛沫を上げる。駅前の大交差点は信号待ちの車のテールランプが雨に霞んで光の帯を織りなしていた。
「でも、いつもの時間の電車にお父さんの姿はなかった。その次の電車、そのまた次の電車が行ってもお父さんは現れなかった。結局、あたしは終電が行くまで4時間近く改札に張り付いてたの。馬鹿みたいでしょ」
  君は力なく笑った。
「お父さんによそに女の人がいることは、後で知ったんだけど。でもあの頃のあたしはそんな事情なんて知らなくて。暗い雨の夜道を一人でとぼとぼ帰って、それから、あたしは雨の降る夜が嫌いになったの」

  雨は漆黒の空から絶え間なく降り続ける。傘を弾く雨音がぼとぼとと不気味に響く。確かに、雨の降る夜はあまり気持ちのいいものとは言えない。ましてや女の子が雨の夜中に一人で歩くことの不安なんて、ガサツな僕には想像もつかなかった。

「それでも、君は僕のこと迎えに来てくれたんだね」と僕は言った。
  君は赤くなってうつむいた。「だって、こんな夜に一人で寝るなんてほうがもっとやだもん。怖いもん」
  そう言って君は突然自分の傘を畳みはじめた。そしてすぐに僕の持つ傘の中に滑り込み、僕の腕に自分の腕をからみつけた。
「ねえ、ユキオ君」と君は言った。

「あたしを一人にしないでね。
あたしがどこに居ても、ちゃんとあたしの居るところに帰ってきてね。
そしたらあたしは、傘でも何でも持って、何時間でも待って、ユキオ君の帰る場所を用意しといてあげるから」


  一人にしないでね。
  そうお願いしたいのはむしろ僕のほうじゃないか。僕は君の柔らかな腕の体温を感じながら苦笑した。
  僕の存在が君の不安を消し去ってあげられるというのなら、僕は喜んでこの腕を差し出そう。君が僕を求めるのなら、たとえ地球の裏側からだって君のもとに飛んで帰ろう。
  君の居るところ、それが僕の帰るべき場所だ。決して変わることのない、僕のホームだ。



→第二十回へ進む
←テクスト集に戻る