第拾弐回「草枕」
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浴衣のまま、風呂場へ下りて、五分ばかり偶然と湯壺のなかで顔を浮かしていた。洗う気にも、出る気にもならない。第一昨夕はどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を界にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。 漱石といったら「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「こころ」、今読んでも抜群に面白い傑作が山のようにある日本文学史上No,1の大作家なわけだが、今回取り上げるのは彼の長編シリーズの中でおそらく最も難解で、最もつまらないと言われるだろう小説「草枕」である。なぜわざわざそんなのを選んだのかって? そこに萌えがあるからに決まってる。 漱石の初期二作「吾輩は猫である」「坊っちゃん」はいまさら説明するまでもないだろうが、人の世のしがらみをユーモアたっぷりに描いた大衆小説である。アハハと笑いながら読む作品だ。ところが坊っちゃんの直後に書かれた「草枕」というこの小説だけがなぜか他の作品群とまったく毛色が違う。世捨て人気取りの旅の絵描き「余」が己の風流のこだわりについてネチネチと脳内で語り続けるだけの、小説の名を借りた思索エッセイ集みたいな作品だ。本の半分くらいは考え事の描写なので、ストーリーというべきものは特になく「旅の旅館で美女と出会って温泉でしっぽりしました」でだいたい説明がついてしまう。こんなもん読書感想文なんかで読まされたらほとんど拷問である。 だがしかし! 美女と温泉、この黄金の組み合わせにロマンを見いだせずしてどうして萌え者を名乗れようか。まずは上の引用文を熟読するがいい。 場面は朝、男風呂の脱衣場。考え事をしながら湯を上がり戸を開けるといきなり美女が「さあ、御召しなさい」と着物をかけてくる。小説的にはさらりと流れてしまうシーンだが、これ実はムチャクチャエロくねえか? 旅館の娘が男湯の脱衣場で着物持ってお客さんのお風呂上がるの待ってんだぜ? 現代に設定変えたら痴女メイドでエロゲになるぞこれ。 このヒロインの那美たんは近所でも「キチガイだから注意しろ」と噂されている筋金入りの不思議っ子で、夜中に歌を歌ったり廊下を振袖姿で行ったり来たりとわけのわからない行動を何度も見せてくれる。この行動の読めなさがもうマゾ男にはたまらない。そして極めつけはこの小説におけるクライマックスとでもいうべき最強萌えシーン。主人公が風呂に入っているところに! 那美たんが服を脱いで一緒に入ってくるのである! 室を埋むる湯烟は、埋めつくしたる後から、絶えず湧き上がる。春の夜の灯を半透明に崩し拡げて、部屋一面の虹霓の世界が濃かに揺れるなかに、朦朧と、黒きかとも思わるるほどの髪を暈して、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪廓を見よ。 首から足下までねっちりと、なんとまあ長く理屈っぽいヌード描写だろうか。漱石の残した小説のうち女の裸を描いたシーンは後にも先にもこの「草枕」の一節のみである。しかしこの力説っぷりを読む限り、漱石先生もエロに関してはなかなかどうして一家言あったようだ。というか脱衣場で待ってたり風呂に一緒に入りに来たり、那美たん本当に筋金入りの痴女である。ここまでされておいて劣情を抱かず絵にしたら綺麗だのなんだのほざく主人公は頭がどうかしているとしか思えない。って漱石は重度の神経症持ちだったので本当に頭がどうかしてこんなストイックなエロを書いたのかもしれんけど。とにかく漱石御大が描いた最初で最後の痴女、那美たんは女の子の気まぐれ猫のような行動にハアハアせずにいられない、僕のような変態M野郎にとってはツボど真ん中の萌えキャラなのである。これから読もうという人は小説自体はあんまり面白くないから適当に流していいので、とりあえず那美たんの登場シーンだけを追ってみよう。するとあら不思議、萌え小説に。そう、草枕とは温泉旅館で美女とドタバタラブコメを展開する小説、すなわちラブひなだったのだ!(大問題発言) 正直なところ中学の頃初めてこの「草枕」を読んだときは「なんだこの圧倒的につまらない小説は」と思ったものだが、歳を取って毎日仕事に追われ、たまの休みに自分でお金出して温泉宿に骨休めなんてしに行くようになって初めて情緒というものの価値と「草枕」の面白さが少しわかるようになった気がする。まあそういうものなんだろう。少なくとも中高生なんてガキのうちに読書感想文で「草枕」を題材にさせるのは、無駄を通り越して害悪であるとさえ思う。大人の味は大人になんなきゃ美味しくないんだよな。大人の味って那美たんの裸の味のことなんだけどさ(当時はまだ正当派美少女が好きだったんだよ…)
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