第八回「箱男」
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ぼくが裏の非常階段から上がって、二階の廊下で箱と長靴を脱ぐと、待ち受けていた彼女が、下から裸で駆け上ってくる。一日のうちで、この瞬間がいちばん刺激的だった。短時間だったが、ぼくはかならず勃起した。体をゆすりながら、隙間が開かないように密着させて、強く抱き合うのだ。しかし、こっけいなくらい語彙は貧困だった。彼女の頭が、ちょうどぼくの鼻の位置にあり、ぼくが「君の髪の匂い」と呟くと、彼女が「くりくり丸い」と後を受けて、ぼくの尻を小刻みにさすりつづける。(中略) 安部公房はエロい。書いてる小説は荒唐無稽ではっきり言ってわけがわからんが、荒唐無稽の妄想爆発だからこそそのエロ描写には確かな「萌え」がある…なんて言ってると決して少なくない(つか、ネットにはむちゃくちゃいっぱいいる)安部公房フリークに抗議のウィルスメールでも送りつけられそうだが、これは本当のことだから仕方ない。代表作中の代表作である「砂の女」などもなかなかのエロさ(女とセックスしたら砂の中から出してもらえる、という話)だが、作品のキチガイ変態度で比較すれば今回のこの「箱男」のほうがやはり一枚上だろう。 ストーリーの全体像は非常にややこしいのでここでは割愛する。場面場面で主人公箱男の中の人がコロコロ変わったり変わらなかったりで意図的にぐちゃぐちゃにされているところが斬新、という小説なのだがまあそういった堅苦しい作品解説はこのコーナーの趣旨にそぐわないので他を当たってもらう、ということで。ここでは「元カメラマンの箱男」と「医者のニセ箱男」をリンクする重要な登場人物である「看護婦兼ヌードモデルの娘」の萌え、という至極どうでもいい一点に話を絞ろう。 想像していたよりも、はるかに魅力的な裸。当然のことだ、現実の裸に想像が追い付いたり出来るわけがない。見ている間だけしか存在してくれないから、見たいと思う欲望も切実になる。見るのをやめたとたんに、消えてしまうから、カメラで撮ったり、キャンパスに写したりしなければならないのだ。裸と肉体とは違う。裸は肉体を材料に、眼という指でこね上げられた作品なのだ。肉体は彼女のものであっても、裸の所有権については、ぼくだって指をくわえて引退るつもりはない。 「裸と肉体とは違う、裸とは肉体を材料に眼という指でこね上げられた作品なのだ」 これぞまさに至言。額縁に入れて飾りたいところですな。肉体自体は女の子のものであっても「裸」の所有権はこっちのもの、譲らないというのは我々非モテにとっては思わず握手を求めたくなるような力強い主張なのではないだろうか。 さてこの元カメラマン箱男の覗きシーン、ここからのエロ描写が長い。 脚の女らしさは、なんと言っても、その曲面の単純ななだらかさにあるだろう。骨も、腱も、関節も、すっかり肉に融けてしまって、表面にはもうなんの影響も残さないのだ。歩く道具としてよりは、性器の蓋としてのほうが、たしかにずっとよく似合う。蓋はどうしても手を使って開けなければならない。だから女っぽい脚の魅力は、視覚的であるよりも、むしろ触覚的にならざるを得ないのだ。 「触覚的にならざるを得ない」とか断言されてもわけわからないし。「歩く道具というより性器の蓋」という表現もちょっと常人の脳味噌からはなかなか出てこないもんである。さすが奇才・安部公房。エロを書かせるとノリノリなのが丸わかりなのが可愛いと言えば可愛い。 この後もこの看護婦娘はずっと脳のネジがぶっ飛んだままで、元カメラマン箱男の前で医者のニセ箱男に「裸になって見せてあげたら?」と言われると「かまわないけど…」とあっさり白衣のボタンを外しはじめてしまうのである! あまつさえ「写真撮りたければ撮ってもいいのよ」などと小さく笑ったりもするのである! 安部御大はこのあたりの現実が現実でないような幻想的(妄想的?)な描写が本当に上手い。妄想文章大好きな僕としてもぜひとも見習いたいところだ。 まあここまで喋っておいてなんだけれど「箱男」は構成が難解すぎて、腰を据えて正面から読むのは正直あまりおすすめできない。少なくとも僕の足りない脳味噌では物語の全容はとても理解できなかった。その難解さやマニアックさが良い、という文学マニアの意見はもちろんアリだと思うし決して否定はしない。が、難しいのは事実なんだからわかんないところは無理にわかろうとせず面白いところ、萌えるところだけをつまみ食いのような形で拾い読む楽しみ方だってまたアリなんじゃないかな、と僕は思うわけだ。そして安部公房という作家はそんな風に読むのにも適したどこまでも懐の広い大作家だと、僕は信じて疑っていないのである。我々は今こそ叫ぼう、看護婦に萌えるためだけにブンガクを読んで何が悪い!!
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