第七回「女生徒」
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お風呂場に電燈をつけて、着物を脱ぎ、窓を一ぱいに開け放してから、ひっそりお風呂にひたる。珊瑚樹の青い葉が窓から覗いていて、一枚一枚の葉が、電燈の光を受けて、強く輝いている。空には星がキラキラ。なんど見直しても、キラキラ。仰向いたまま、うっとりしていると、自分のからだのほの白さが、わざと見ないのだが、それでも、ぼんやり感じられ、視野のどこかに、ちゃんとはいっている。なお、黙っていると、小さい時の白さと違うように思われて来る。いたたまらない。肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。なりゆきにまかせて、じっとして、自分の大人になって行くのを見ているより仕方がないのだろうか。いつまでも、お人形みたいなからだでいたい。お湯をじゃぶじゃぶ掻きまわして、子供の振りをしてみても、なんとなく気が重い。 太宰治といえば誰もが真っ先に名を挙げるのは「走れメロス」「斜陽」「人間失格」あたりだろう。確かに太宰という名を文学史上において不動のものにしたのはこれらの傑作群だし、それらが代表作として扱われることについては異存はない。だが、それはあくまでも文学史を語る上での話。はっきり言って斜陽や人間失格なんてジメジメした読んでいて鬱になるような自殺願望小説群より、ずっと大衆的で面白くて、生の輝きに満ちあふれた作品を太宰は他にいくつも残している。今回取り上げるある少女のたわいない一日を少女の独白という文体で捉えた「女生徒」という短編も、間違いなく太宰の最高傑作の一つと呼ぶに値する名短編である。 気分屋だけど家族思いの眼鏡っ娘「私」。朝に目を覚ますときの気分から夜眠りに落ちるときの気分まで、とにかくこの「私」は一日中ベラベラと解説しっぱなしなのだが、それがもう気持ち悪いくらいリアルなのだ。女の子ならではの物の考え方、気分の機微が実に的確に捉えられている。たとえば新しい下着につけた小さいバラの刺繍が上着に隠れ、誰にもわからない、となぜか得意になる感覚。たとえば電車の中にいる濁った目をしたサラリーマンたちを見て「ここで私がにっこり笑ってみせるだけで、ずるずる引きずられて結婚しなければならぬ羽目に陥るかもしれない、恐ろしい気をつけよう」と思う感覚。たとえば厚化粧のババアを見て女は嫌だ、洗っても落ちない雌の不潔さ生臭さがたまらないからいっそ少女のままで死にたくなる、と思う感覚。女の子が読めばどれもこれも「うん、その気持ち、わかる」と頷いてしまうに違いない。太宰という小説家は僕にとっては「乙女心の極意」を極めた男性小説家として君臨しており、その一点においては尊敬しているし追いつき追い越したいと思っている。なぜなら太宰は今でも一部の女性読者に圧倒的に支持されているからだ。僕も乙女心を書いてモテたい。 まあそんな感じでこの「女生徒」は一人の乙女がどんなことを考えて一日を過ごしているのか、の完璧なケース・スタディでありすなわち全編が非常に萌えである。なにしろお風呂で窓を開けて「空には星がキラキラ。なんど見直しても、キラキラ」だ。さすがの僕もお星様キラキラは恥ずかしくて書けない。太宰先生の領域に達するまではまだまだ修行が足りなさすぎるようである。 ちなみに太宰の小説で何が好き? と聞かれれば、僕はこの「女生徒」ともう一つ「雪の夜の話」という短編を迷わず挙げる。これも「女生徒」と同じ少女の独白文体の短編で、雪の日に妊娠中の義姉のためのお土産にもらってきたスルメを道に落として失くしてしまう話。なにしろ雪が積もっていて見つからないので、この美しい雪景色をたくさん瞳にたくわえてお腹の赤ちゃんのために瞳を覗かせてあげよう、スルメなんかにこだわるのは卑しいことだ、そうだそうだと一人勝手に納得して帰る女の子の気持ちの動きがとても生々しいのにとても幻想的、というわけのわからない短編なのだが僕はこの話が太宰作品の中では一番好きだ。僕が理想とする小説の一つ。興味をもたれたかたはぜひ一読を。「斜陽」なんてつまんないから読まなくていいですよ。
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