第弐回「麦藁帽子」
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お前はよそゆきの、赤いさくらんぼの飾りのついた、麦藁帽子をかぶっている。そのしなやかな帽子の縁が、私の頬をそっと撫でる。私はお前に気どられぬように深い呼吸をする。しかしお前はなんの匂いもしない。ただ麦藁帽子の、かすかに焦げる匂いがするきりで。…私は物足りなくて、なんだかお前にだまかされているような気さえする。 堀辰雄の短編「麦藁帽子」は15歳の少年「私」が13歳の麦藁帽子の似合う少女「お前」に対して抱く淡い恋心を描いた小説で、匂いフェチの僕はこの「お前」の匂いを嗅ぐと「麦藁帽子のかすかに焦げる匂いしかしない」というくだりがたまらなく好きなのである。およそこの世でもっとも夏が似合うのは麦藁帽子を被った女の子であると僕は断固として主張しよう。 しかし実際被ってみるとわかることだが、麦藁帽子はかなり人を選ぶ帽子である。 印象の薄い顔立ちの人間が被れば帽子自体の存在感に負けてしまうし、かといって顔立ちの濃い人間が被ると今度は野暮ったい田舎臭さばかりが際立ってしまう。麦藁帽子がファッションの表舞台に登って来ることがないのはそのためだ。要するに、おしゃれのアイテムとして用いるには麦藁帽子はあまりにも難しすぎるのである。そんじょそこらの女の子ではまず門前払いを食らうのがおちだろう。 麦藁帽子を真に被ることが許されるのは「綺麗」だとか「可愛い」だとかいった視覚的な魅力の上に更に内面的な少女性の魅力、「聖処女性」を持ち合わせている女の子だけなのだ。それは「アイドルになれる器」と同じくらい稀少で、神がかり的な存在である。千人に一人、いや一万人に一人いるかいないかだと言ってもいい。だから僕はそんな麦藁帽子の似合う女の子との奇跡的邂逅を求めて、今日も海辺をさすらうのだ。もし該当者だという女の子がいるのなら遠慮なく写真貼付のメールを送ってくるがいい。こちらからは捺印済みの婚姻届を返送させてもらう。 ……すこしうとうとと眠ってから、ふと目をさますと、誰だか知らない、寝みだれた女の髪の毛が、私の頬に触っているのに気がついた。私はゆめうつつに、そのうっすらとした香りをかいだ。その香りは、私の鼻先きの髪の毛からというよりも、私の記憶の中から、うっすら浮んでくるように見えた。それは匂いのしないお前の匂いだ。太陽のにおいだ。麦藁帽子のにおいだ。……私は眠ったふりをして、その髪の毛のなかに私の頬を埋めていた。お前はじっと動かずにいた。お前も眠ったふりをしていたのか? このエピローグの一節も最高に好きで、読むたびにうっとりしてしまう。思春期の若者らしく「私」は日毎に成長して変わっていく「お前」に戸惑い、裏切られたと勝手に思いこむわけだが、最後の最後にそのお前の髪の毛からあの頃の幼い恋心の象徴、麦藁帽子の匂いを嗅ぎ取るのだ。そして髪の毛に頬を埋める。お前はじっと動かずにいる。目を閉じれば静かな闇の中に響く両者の胸の動悸が聞こえてくるような、そんなシーンだ。お前が私の行動に気づいていたのかいなかったのか、「私」のことが好きなのかどうなのか、それは書かれていないのでわからない。ここでただ一つ確実に言えることは、主人公「私」は筋金入りの匂いフェチだということくらいだろうか。うんうん、わかるよその気持ち(お前もかい)
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