第壱回「伊豆の踊り子」
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踊り子は十七くらいに見えた。私にはわからない古風の不思議な形に大きく髪を結っていた。それが卵形の凛々しい顔を非常に小さく見せながらも、美しく調和していた。髪を豊かに誇張して描いた、稗史的な娘の絵姿のような感じだった。 ではまず手始めに、踊り子こと「薫」という少女がどんな少女であるかを見てみよう。 踊り子という特殊な商売柄、薫は旅の仲間以外の人間や外の世界のことをほとんど何も知らない。だから最初、「私」に話しかけられただけで彼女はどぎまぎして赤くなってしまう。また次のお茶を運んでくる場面、私の前に座ると薫は真っ赤になりながら手をぶるぶる震わせて、ついには茶をこぼしてしまうのだ。そのあまりのはにかみぶりに「私」はあっけにとられてしまう。このときはまだ「私」は薫のことを「十七くらい」と踏んでいたので、なおさら驚いたのだろう。しかしだ、女子高生くらいの顔立ちの娘の中身が実は世間をまるで知らない無垢 話を小説の筋に戻して、次の日の朝。旅芸人一行の男を誘い風呂に入りに行く私は、途中で川向こうの女湯の方を伺う。このシーンこそ「伊豆の踊り子」中最大のヤマ場であり、この作品を名作たらしめんとする至高の美少女描写であると僕は断固として主張しよう。 ほの暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな格好で立ち、両手をいっぱいに伸して何か叫んでいる。手拭いもない真っ裸だ。それが踊り子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけた喜びでまっ裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。 思えば、僕が中学生の時生まれて初めて「萌える」という感覚を覚えたのがまさにこの場面であった。薫は僕の萌え人生の初恋の人といっても過言ではないかもしれない。裸で湯殿を飛び出してくる薫の姿に主人公「私」は心に清水を感じたかもしれないが、僕は萌えを感じた。書いた川端康成だって絶対それを狙っていたに違いないと僕は思う。「伊豆の踊り子」のこのシーンこそは僕の永遠の憧れの萌えテキストであり、いつか到達したいと思う最終目標テキストなのである。その志が高いのか低いのかは僕には判断しかねるが。
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