八時間目(前編)

  今年ももう何回聴いたかわからないくらい耳慣れた「クリスマス・イヴ」が店内に響き渡る。僕はバーゲン会場みたいな女性だらけの人混みの隅で壁に背中をもたれかけながら、真剣な目つきで店内を巡る桃の姿をぼんやりと目で追っていた。


  「安いのでいいから指輪が欲しい」、と言って桃は僕をこの店に無理矢理引っ張ってきた。ティーンズ向けの低価格ジュエリーショップとしてこの街ではわりと有名な店らしい。明らかに中高生とわかるカップルが人混みの中で手を取り合っている姿はなかなかに初々しいが、問題はとっくの昔に中高生ではなくなっている僕がこの店内ではおもいっきり浮いているということだ。僕を置き去りにして一人買い物モードに入っている桃。相変わらず桃は僕の立場とか都合というものを考えないで動く。困ったものだ。
  まあマフラーをもらってしまった以上お返ししてあげないわけにはいかないではないか。耐えるしかない、と僕は自分に言い聞かすようにして中高生カップルの群れの中で一人桃を待っていた。しかし、見たくもないのに編みかけのマフラーを事前に見せられてしまったこっちの身にも少しはなって欲しいものだ。すぐに巻いてみせてあげられるように、わざわざ首周りが開くような服を選んできてあげた僕の気遣いなんて、当然桃はこれっぽっちもわかっちゃいないのだ。やれやれ。


  結局30分かかって桃が選んだのは5000円のシルバーリングだった。シンプルで銀の美しさがよく映える綺麗なデザインだった。5万円する、と言われても僕なら確実に騙される。少なくとも安物には見えない。包みを受け取って店を出ると桃はどうもありがとう、と言って僕の腕にしがみついてきた。僕は振り払うのも面倒臭いのでそのままにさせて歩き出した。桃の長い買い物待ちの間に街はだいぶ日が沈み、夕闇の街路樹にはクリスマス・イルミネーションがちらほらと灯りはじめていた。
「ねえ、こうしてるとコイビト同士にしか見えないよね」と桃は言った。桃は僕の腕にぴっとりとしがみついていた。
「僕は先生と生徒に見えると思うぞ」と僕は言った。
「どこの世界に腕組んで歩く先生と生徒がいるのよ」
「ここにいるじゃないか」
  桃は頬を膨らませて僕の腕をぶんぶんと振り回した。
「もう、なんでそんなつまんないこと言うの?せっかくのクリスマスなのに」
「つまんないことじゃないよ」と僕。「事実を述べたまでだ」
  僕がそう言うと、桃はぴたりと立ち止まった。そして僕の目を見上げながら、言った。


「じゃあ今日、先生と生徒の関係じゃなくなりたいって言ったら、雪男先生はどうする?」


「先生と生徒の関係じゃなくなりたい?」と僕は聞き返した。
  桃は少し目を伏せた後、覚悟を決めるように小さく「うん」と頷いた。

「勉強以外に外で会ってもらうためにいろいろ理由探したりするの、もう嫌なの。何の気兼ねもなく、コイビト同士だからって理由で普通に会えるようになりたいの。
約束する、勉強の手は抜かない。雪男先生が取ってみせろって言うなら全教科100点取ってみせるよ。だから、お願い。あたしと、コイビト同士の関係になってください」

  桃は深々と頭を下げた。ワガママ放題だった桃が僕に初めて見せた、深いおじぎ姿だった。真剣なのだ。この答えだけはいつものようにはぐらかすわけにはいかないな、と僕は思った。いよいよ僕らの曖昧な関係にも決着をつけるべきときが来たのかもしれない。
  立ち止まった僕らの脇を人波がすり抜けていく。桃は頭を下げたままの姿勢で、ただひたすら僕の言葉を待っていた。僕は身につけたボキャブラリーの全てを総動員して言葉を探した。が、結局のところ最終的に告げるべき言葉は一つなのだ。それは最初から、もうずっと昔からわかっていたことだ。だから僕は余計な小細工は捨て、まず最初にその言葉を口にすることにした。
「ごめん」
(後編に続く)

八時間目(後編)

(前回の続き)
「ごめん」

  桃は顔を上げようとしなかった。人波が小さな桃の身体を少しずつ押し流してゆく。僕はそんな桃の肩を掴み、やがて静かに抱きしめた。ダッフルコートの柔らかな羽毛が僕の頬を撫でた。
「君は僕の人生で出会った中でいちばん可愛い女の子だ」と僕は言った。「初めて君に出会ったとき正直、思ったよ。初めての教え子がこんな可愛い女の子だなんて自分はなんて幸せ者なんだろう、って。その気持ちは今でも変わってない。僕は君の先生でいることが本当に幸せなんだ。君をどこでも行きたい高校に受からせてあげたい、って心から思うよ。でも、ごめん。『その先』の気持ちは今は、ない」

  桃はしばらくの間しがみつくみたいに僕の胸に顔をうずめていた。そしてやがて顔を上げて泣きそうな声で、言った。
「『その先』はないって…あたしが高校に合格して雪男先生が先生でなくなったら、もう終わりってこと…?赤の他人ってこと…?」
「赤の他人ってことはもちろんないさ」と僕。「高校に受かった後だってその先だって、君はいつまでも僕の可愛い教え子のままだ。それは変わらない。君が大人になっても、ときどき会って笑顔でお話できたらいいなって思ってる。でもそのためには、今ここで先生と生徒という関係を壊してしまうわけにはいかないんだよ。
コイビト同士はいつか別れる。それも君はまだ中学生だ、好きだなんて気持ちはすぐ冷める。でも、先生と生徒のままでなら、いつまでも君とはいい関係のままでいられるじゃないか。そうは思わないかい?」
「思わない」
  桃は即答した。「いつか別れるにしたって何だって、あたしは今、雪男先生とつきあいたい。もっといっぱい一緒に居てもらえるって、確かな約束が欲しい。それだけじゃだめなの?」
「…」僕は沈黙した。
「それに、あたしの気持ちは変わらないよ、きっと」
「変わるさ。そういうもんだよ」
「変わらない。断言する」
「そりゃ断言じゃなくて、予言だ」と僕は言った。「明日に自分の気持ちがどう変わってるかなんか、誰にもわからないんだよ。『The future's not ours to see』だ」
  それはついこのあいだ桃に和訳の宿題を手伝わされた「ケ・セラ・セラ」の歌詞の一部だった。『未来は誰にもわからない』。そう、わからないのだ。だから僕は未来が怖い。いまここで桃の気持ちを受け入れてしまうのは楽だ。僕だって桃が好きだし、受け入れてやりたいのはやまやまだ。だけどそう遠くない未来、いつかは必ず桃は僕の元を去っていくだろう。僕は、その未来が怖いのだ。桃を失うのが怖いのだ。

「でも、もし―――――」
  僕は続けた。「もしも君が僕と一緒に勉強頑張って行きたい高校に見事受かって、その時まだ僕のこと好きだって気持ちが変わってなかったら」
  僕は桃の頬にそっと手のひらを当てた。赤く染まった桃の頬はとても暖かかった。桃はじっと僕の目を覗き込んでいた。
「その時は、気持ちが変わらないって断言した君の言葉を信じるよ。教え子からコイビトにって君の願い、今度は真剣に考えてみてあげる。
でも少なくともその時までは今まで通り、僕は先生で君は生徒だ。そのけじめだけはしっかりつけたい。そういう返事じゃだめかい?」

  桃は僕の目を覗き込んだままで頬をぷくっと膨らませてみせた。
「高校受かるまであと一年以上、待たなきゃいけないの?」
  接近した桃の唇から放たれる温かい吐息が僕の唇にかかる。僕は答えた。「一年なんてすぐだよ」
「あたし、待つのって苦手だよ」
「それでも待ってもらわないと」
「雪男先生が困る?」
  僕は少しの間ためらった後、苦笑いしながら呟いた。「僕が困る」
  桃はにっこりと微笑んだ。そして精一杯の背伸びをして、ゆっくりと唇を僕に近づけてきた。このシチュエーションはいつかの文化祭の前日と同じだ、と僕は反射的に思った。が、今回はあの時とは決定的に違う点が一つだけある。僕はいま自分から桃を求め唇を近づけているのだ。やがて柔らかな感触が僕の唇を包むのを感じ、僕は目を閉じた。人波が僕らを押し流そうとするのに逆らうように、強く桃を抱きしめながら。
  長い十秒が過ぎ、桃は唇を離すとすぐに僕に抱きついてきた。桃は僕の胸に顔をうずめたままで言った。
「雪男先生、人を勉強する気にさせるのうまいね」
「やる気出てきた?」
「出てきた出てきた」と桃は笑って答えた。「それにね今、先のこと考えるのが楽しいって、少しだけど思えるようになったよ。これって、あたしにしてはすごい進歩」
  僕は桃の髪の毛を優しく撫でながら、思った。そうだよ桃ちゃん、それはすごい進歩だよ。君はいま僕が忘れていた大事なことを気づかせてくれた。『未来は誰にもわからない』、だから楽しいんだってことを。
  桃が受験を迎えるまであと一年と二ヶ月。14歳の桃にとって一年二ヶ月という時間は僕のそれよりはるかに長いはずだ。その間に気持ちがあっさりと変わってしまわない保証なんて、どこにもない。
  だけど僕は不思議と桃を信じられる気がした。無事合格して喜ぶ桃を抱きかかえる未来の自分がすぐそこに見えるようにまで感じた。もちろんそれはただの錯覚なのかもしれない、僕にとって都合のいい未来を夢見ているだけなのかもしれない。未来は誰にもわからない。だけど、と僕は思った。未来のことをあれこれ思い巡らせる『今』は、この上なく楽しい。それでいいじゃないか。未来を恐れるのは、その時が来てからで充分だ。

  僕は抱きついた桃の身体をゆっくりと解きほぐし、優しく言った。
「寒くなってきたし、帰ろうか」
  桃は「うん」と小さく頷いた。そして当たり前のように僕の手のひらを取り、歩き出した。僕は固く握りしめられた桃の手のひらの体温を感じながら、思った。


  まあ、今日だけは特別ってことで、いいか。
  メリー・クリスマス。



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