ド ロ ウ ゲ ー ム


そこだけ不自然に冷えた床と
天井の蝶のような暗い染みを


未だにはっきりと 覚えている。




[ ド ロ ウ ゲ ー ム ]



  あれからあの人は俺を睨みつけることもなくなって、
何でだか俺も、言葉の端を掴むのが下手になった。
カラダの痛みはひいたのに、ココロの痛みが残っているのが
なぜなのか、俺にはどうしても わからない。


*


「どうしたの最近元気なくない?」

釜本は言う。
俺がそんなことねーよ、と呟くと
無理しちゃダメだよ?と先輩ぶってか
ぽんぽん。と優しく肩を叩いてきた。
何だか無性に泣きたい気分になったけど
冗談じゃねえ、人前で、しかもオンナの前なんかで泣けるか。
なけなしのプライドでぐっと踏ん張って、
俺の返したマンガを両手で抱えたまま心配そうに見やる
釜本の元から走り去った。

釜本の顔さえろくに、見られない。
…俺は どうなっちまったんだろう。


*


響くボールの音が痛い。
なかなか入らないシュート。
ガスン。
ゴール下から焦りだけが舞い上がる。

「調子悪いんじゃないのか?」

休めよ、後ろからかけられた声に身体が固まる。
振り返ることができないでいると、
声の持ち主が前に回ってきた。

「無理してやっても何にもならないから」

目が合った瞬間、ギクリとした。
そして、自分の反応に愕然とした。

…、いつもと違う。

ドキリとするはずの心臓はいつの間にか、
規則正しい鼓動を刻みはじめている。

ショックのあまり俺が何も言えないままでいると
それを調子が悪いせいと勘違いしたのか、
久保先輩は眉を顰め、俺に腕を伸ばしてきた。

ひやりとした手が額に触れた瞬間。


人気のない体育館の湿った空気だとか、
あの時遠くから聞こえた救急車のサイレンだとか、
あの人の怒ったような切なそうな顔だとか、


一気に、キて。


*



  不思議な夢を見た。



その中で、俺はひらひらと飛ぶ蝶だった。
毎日が楽しくて楽しくてしょうがなかった。

ある日いつものように
花の中を自由に飛び回っていたら、
大きな何かが俺に伸びてきた。
突然羽をもがれた俺は、その痛みで死にそうになる。

それでも、呼吸が止まることはなかった。
それどころか。

傷つけたはずの羽をなぜか癒そうとするその不器用な温度に、
…もう逃げられない、と感じて瞳を閉じる。

この温度が一番、優しく懐かしいような気がして。



もう、ここから、動けないんだ。
もう、二度と。


*


目を開けると真っ白な天井が目に飛び込んできた。
何度か嗅いだことのある、ツンとした独特の匂いに、
あ、保健室か、とぼんやり思う。
と、その時。

「…起きたのか」

あの日から一度も耳にしていたなかった声が降ってきた。

嘘だ、と思う自分と
どこかでやっぱり、と思う自分がいて。

ゆっくりと声のした方に身体を傾けると
久しぶりの、強い視線にぶつかった。

「…何倒れてんだよこのひ弱」

ほんと、ひ弱だよな。
ちょっとのことくらいでガタガタになって。
あんなこと、…大したことでもねーのに。
ちょっとした事故だ。

ほんの、ちょっとした。

「何泣いてんだ…」

驚いたような声色に、初めて自分が泣いていることに気づいた。
ひ弱だと罵られてもしょうがない。
人前で泣くなんて。
…しかも、一番泣き顔を見せたくない人の前で、泣くなんて。

「………、ったよ」
「…え?」

掠れた言葉が聞き取れなくて、
目を擦りながら聞き返すと、
擦んなよ、目ぇ腫れるぞ、という声とともに
擦っていた手を、どかされた。

「…、悪かったって言ってんだよ」

真摯な視線に怯んで、思わず逸らしてしまった。
心臓が早鐘を打ち始める。


何で謝る?
……、何でこの人は今謝ってる?


「そんだけだ」

ガタリ。

八重先輩が立ち上がって軋んだ椅子だけが
この不自然なまでに真っ白な世界で唯一
生きているもののような錯覚を覚えた。

「今度は倒れんじゃねえぞバカ」

バタン。

扉が乱暴な音を立てて閉まる。




途端にどっと睡魔が押し寄せてきて、
俺はもう一度白い世界に顔を埋めた。


*


何だっけ、この苦しくて切なくて、でもどこか幸せなこんな、変な気持ち。

…何か、名前が付いてたような、気がする。




――今はまだ、上手く思い出せないけど。

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written by チコ