夏の夜のいるか、届かない声真夏の江ノ島に一度でも来たことのある人になら、その異常なまでの海岸の混雑ぶりは理解していただけることと思う。 一年前の夏、僕はそんな江ノ島海岸沿いのファミレスのキッチンで毎日働いていた。 といっても僕が働いていたのは24時間営業のうちの深夜から明け方にかけてであるから、それほどまでには店は混まない。戦場のように忙しい昼間に比べれば楽もいいところである。それでいて深夜手当という名目で昼の人間より高い千円もの時給をもらっていたのだから、なんだか悪いような気もしたものだ。 僕の店の夜中のキッチンは基本的に二人か三人でやっていて、その時間にはすでにもう社員の人間はいない。だからここだけの話、やりたい放題であった。店の食べ物を食い散らかすも、大ジョッキでビールをあおるも自由。そんな風にして僕らは、毎日酔っぱらいながら客に飯を作って出していた。冷静に考えるととんでもない話ではあるがとにかく、僕ら深夜の人間にとって夏は、飲んで騒いで金も稼げる、最高の季節だったのだ。 彼女がその深夜のキッチンに入ってきたのはちょうど一年前、新しい夏がはじまる頃だった。 *
「彼女は一つ年下の20歳だと言ったけど、僕にはどうやったって14くらいの中学生にしか見えなかったな」 雨の日曜日の人少ない居酒屋で、僕は酒の回り始めたはずみについつい昔話なんて始め出す。 「顔はいわゆる美人ってやつではなかったけれど、愛嬌のある性格でみんなに好かれるタイプの娘だった。ちょっととろくさい所があってね、仕事もとにかくドジだし、喋り方は間が抜けていてへンだし。そんなちょっと変わってる所もすごく可愛くて、気がつくと、僕はその娘のことが好きになっていた」 予想通り、彼は滅多に自分の事を話さない僕の珍しい昔話に乗ってきた。湘南きってのナンパ師でもある彼は、こういう話になると目の輝き方が違う。 「その娘はよくいるアレですか、『守ってあげたくなるタイプ』ってやつですかね」 彼は手元にあるジントニックをあおりながら、僕に酒臭い息を浴びせてきた。 彼は僕の高校時代の後輩で、何の因果か卒業した今もたまにこうして会っては夜中に遊び回っている。彼がどうして僕のことを気に入ったのかは皆目見当もつかないけれど、とにかく人付き合いの悪い僕にとって、彼は数少ない友人と呼べる貴重な人間の一人だ。ただ一つ文句をつけさせてもらえるなら、酒癖が悪すぎる。今日もこうして僕は、彼の酒の相手にほぼ無理やりつき合わされていた。 「いや、むしろ逆だった」と僕は言った。 「ほら、小学校の時にクラスに一人はいたろう、可愛すぎて男の子にいじめられちゃうような女の子。スカートめくりされたり、上履き隠されちゃったりする女の子が」 「ははあ、わかりますわかります」と彼は言った。 「好きだからいじめたくなっちゃう娘、ってやつですね。そういやいたなあ、そういう娘」 彼は空になったカクテルのグラスを置いて、暇そうに立っていたウェイトレスの女の子を呼んで追加を頼み始めた。このぶんではまだまだ家には帰してくれそうにない。 「そう、彼女はまさにそういうタイプの女の子だったんだ」と僕は言った。 「それでと言うには恥ずかしい話なんだけど、僕や僕のバイト仲間はみんな、彼女のことをよくいじめてたんだ」 「みんなで?そりゃ、ちょっとかわいそうなんじゃないですか」 僕は手を振った。「もちろんそんなあからさまなもんじゃないよ。ちょっと冗談に悪口を言ってみたり、冷たくあしらってみたり。そうすると彼女は笑いながら追いかけて来たり、すねていじけて見せたりする。そのリアクションが実に多彩で面白いもんだから、僕らは余計彼女をからかって遊んでたんだ」 僕はちらりと時計を見た。十一時半だった。明日は月曜、朝は早いだろうに彼は帰る気配をいっこうに見せない。仕方なく僕も彼のついでに新しいサワーを注文することにした。 「でも、ある日」僕は続けた。「僕は調子に乗りすぎて、ついに彼女を泣かせてしまったんだ。僕はいつもと同じようにからかっているつもりだったんだけど、今思えばその日は特に陰湿な言葉で、ねちっこく絡み続けていたんだね。彼女は顔を真っ赤にして僕を睨み付けると、そのまま調理場を飛び出して行ってしまった。それで僕はやっと、自分がいかに今まで彼女に対して酷いことをし続けて来ていたのかを、思い知らされたわけだ」 新しい酒がやって来て、僕は待ちかねたようにグラスを傾け喉の渇きを癒した。頭が熱くなっているのはやはり酔っているせいなんだろうな、と僕はうつろに思った。 「一緒に居たキッチンの先輩に、ここはいいからお前、謝って来いと言われて、僕は急いで控え室に走って行ったんだ。 そこで彼女は一人で、机にうつ伏して声も無く泣いていた。僕はなんて謝ったらいいのかわからなくて、ただ馬鹿みたいに入り口に立ちすくんでいることしかできなかった。長い時間沈黙が走り、彼女はその間身動き一つしなかった。眠っているんじゃないかと思ったくらいだ」 彼はいつの間にか黙りこんで、僕の話に耳を傾けていた。彼の前に並べられた空のグラスはすっかり氷も溶けきってしまっていた。 「それは本当に長い沈黙だったんだ」と僕は言った。「真夏の江ノ島と言えど、夜中の三時という時間帯には本当に静かになるもんなんだ。微かに聴こえてくるのは波の音と、海岸線を走る車の風を切る音、そして彼女の小さな小さな嗚咽だけだった。僕はその沈黙を破る言葉を何度も頭の中でつぶやいては取り消して、相変わらず立ちつくしているだけだった。 その声が聞こえたのは、そんな状況の中だった」 「その声?」と彼は言った。 「先にその声に気がついたのは、彼女の方だった」と僕は答えた。「彼女はむくっと机から起きあがると、ちらりと僕の方を一瞥した。そしてこう言ったんだ、『ねえ、何の声かしら?』」 *
「ねえ、何の声かしら?」 彼女に突然そう言われ、僕は戸惑いながらも注意深く耳を澄ましてみた。すると、確かに何か奇妙な声が微かに聞こえた。 僕は控え室の窓をいっぱいに開け、声のする方向にもう一度よく耳を澄ませた。すると今度ははっきりと、きゅう、きゅうという動物の鳴き声を聞き取ることができた。 いつの間にか彼女は僕の隣に並び、窓の外に向かって一緒に顔を乗り出していた。はからずも僕と彼女は向かい合う形になってしまい、僕は狼狽した。泣きはらした彼女の真っ赤な瞳と向き合うのが怖くて、僕は目線を遠い海に向かって大きく逸らした。 「わかったわ」といきなり彼女は興奮気味に言った。驚いて僕が振り向くと、彼女はつい先刻まで泣いていたとは思えないほどの満面の笑みを浮かべていた。 参ったな、と僕は頭を掻いた。そうだった、僕は彼女のそういう所を好きになったんだったっけ。 「いるかの声。きっと、いるかの声よ、これ」 と言って彼女はさらに窓から顔を乗り出した。 「イルカ?」と僕は言った。 「そう、いるか。ほら、あそこから聞こえて来るじゃない。間違いないわ、いるかよ」 「どれどれ」と僕は彼女の指さす方向に目をやった。それは海岸道路を隔てたすぐ向こう側にある、イルカとクジラのショー用の江ノ島マリンランドだった。なるほど、言われてみればその鳴き声はその辺りから聞こえて来ているようだった。 「ほんとだ、あそこから聞こえるな」と僕は言った。 「でしょ、これは絶対、いるかの鳴き声よ!」 嬉しそうにはしゃぐ彼女の横で、僕は謝るきっかけを完全に無くし取るべき態度に困りかねていた。さっきからどうも、彼女のペースに巻き込まれっぱなしだ。 ひょっとしたら、これが彼女流の僕へのお返しなのかもしれないな。僕はふとそう思った。もしそうならば、それはとても彼女らしいやり方だ。僕は思わず苦笑してしまった。 「でも、なんで鳴いているのかな?こんなに悲しそうな声で」 と彼女はベランダに腰掛けたままの姿勢で言った。 「きっと疲れてるんだよ。夏はショーがきついから、ストレスが溜まっているんじゃないかな」と僕は答えた。 「えっ、そういうもんなの?」 「いや、根拠も何もないけど…たぶんそんなとこだと思うよ」 「ふーん…」と彼女は首を捻った。「そうよね、いるかだって疲れちゃう時くらいあるよね、そりゃ」 マリンランドの方からはまだ、きゅう、きゅうという小さな鳴き声が響いて聞こえた。ふと僕は、今この彼らいるか達の鳴き声を聞いているのは世界中で僕ら二人だけなんじゃないだろうか、なんて考えてみた。イルカの世話係の人達は聞いたことがあるのだろうか、この声を。誰も居ない深夜三時半のプールでひっそりと鳴く、彼らの声を。 「ひょっとしたら、ホームシックになっちゃったんじゃないかなぁ」 と彼女は言った。 「ホームシック?」 「だって毎日毎日、あんな狭いプールの中で芸をやらされてるんでしょ?」 「うん」 「そしたらたまには、『ああ、故郷に帰りてえなあ。思いっきり広い海で自由に泳ぎ回りてえなあ』なんて思っちゃったりすると思うの。きっと今日も、遠いふるさとの海を想うといたたまれなくなって鳴いているのよ、『きゅう、きゅう』って。そう思わない?」 そう言って彼女は僕の方を振り向き、にっこりと微笑んだ。 その幼子のように無邪気な鳴き真似は僕の心の奥のいちばん柔らかい部分にそっとくすぐりかけるように響き、僕は相槌の言葉すら失ったままただ黙って彼女の大きな瞳をじっと見つめつづけていた。 僕にはどうしても彼女に伝えたい言葉が、感情が、あった。口を開けばすぐにでも溢れ出してしまいそうなくらいに強く、確かな気持ちがあった。ただ今この場に流れる時間は僕のそんなつまらない言葉で台無しにしてしまうには、あまりにも惜しい時間であるように僕には思えた。だから僕は口をつぐんだ。そしてそれきり黙り込んでしまった。 僕らはしばらく窓際にたたずみ夜風に当たっていた。 波音と波音の間に挟まれるようにいるか達のか細い声が響く。僕は目を閉じてしばらくその哀しげな声に耳を傾けていた。 「ねえ、そろそろあたし、戻るね」と彼女は言った。 「みんなに迷惑かけちゃった。きっと戻ったらみんな、怒ってるね」 「そんなことないよ」と僕はすぐさま、まるで怒るように言った。そして「君は悪くないよ。悪いのは、僕だ。ほんとにごめん。なんでもお詫びしますからどうか許してください」と言って大きく頭を下げた。 彼女はくすくすと笑って、控え室の出口に向かい僕に背を向けた。その背中は僕にはとても小さく感じられた。そして彼女は急に振り返ったかと思うと、 「ねえ、ユキオ君。あたしってどんくさい奴だけどさ、見捨てないでいてやってよ」と、言った。 「見捨てないよ」と僕は言った。「見捨てないよ。君のどんくさいのには、もうとっくに慣れてるよ」 そう言って、僕らは笑いあった。いつもの僕と、彼女のペースだった。 「戻ろう。みんな待ってるよ」と僕は言い、僕らは控え室を後にした。ドアの向こう側からでは、あのいるか達の声はもう聞こえてはこなかった。 *
「その日、明け方近くに仕事を終えた僕は、何となく海岸まで歩いて行ってみたんだ。なんでそんな気分になったのかはわからないけれど、もっと近くでいるか達の声を聞いてみたくなったんだ」と僕は言った。 「明け方の海岸に座り込んで、僕は目前の巨大なマリンランドを見上げた。でもそこにはもういるか達の鳴き声はなかった。 『ああ、故郷に帰りてえなあ。思いっきり広い海で自由に泳ぎ回りてえなあ』。 僕はふと彼女の言葉を思い出した。そして故郷の海を想いながらひっそりと、夏の夜に鳴くいるか達を想った。波音に紛れ、あんなに近くにいた僕らでさえ聞き取れないくらいに微かな声で、それでも必死に鳴き続ける彼らを想った。そして僕はどういうわけか涙をこぼした。 いるかごときに感情移入して、泣いてしまうなんてね。徹夜明けで疲れていただけなのかもしれないけど、さ」 それだけ言うと僕はテーブルの上に五千円札を一枚置いて、立ち上がった。 「以上、終わり。もう帰ろうぜ、明日が辛くなる」 「え、そんな、まだいいじゃないですか」と彼は言った。「もうちょっと続きが聞きたいですよ」 「続きなんてないよ」と僕。しかし彼は頑固にも席を立とうとしない。 「そうだ、その女の子とは?最後はどうなったんですか、先輩とは?」 「…そんな嫌なこと聞くなよ」と僕は言った。 「…駄目だったんですか」 「…」 「…」 それで一気に場は暗く盛り下がってしまった。彼はそそくさと立ち上がり、気まずそうに一人レジに向かった。 これだから昔の話は嫌いなのだ。 *
最後に。 この話は1998年の夏、僕の実際の体験に基づいて書かれた、基本的にはノンフィクションであります。 この話を直接の関係者に読まれることは僕の社会的な死を意味します。だからあの、できれば、地元人のかたは読まないで下さい。また関係者にピンと来てしまったかた、絶対に本人にチクらないでください。 僕はもうしばらくこの街で生きていたいのです。 99/11/18
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