第拾四回「白痴」
作者あらすじ
坂口安吾(1906〜1955)

新潟県西大畑町に生まれる。本名は坂口炳五。子供の頃から反抗的で学校にもほとんど通わず、地元の中学を放校処分で追い出され都内の学校に編入。東洋大学文学部印度哲学科卒業後から本格的に執筆を始める。終戦後のエッセイ「堕落論」では堕落することを肯定し戦時中の価値観を引きずっていた当時の日本人に大きな影響を与えた。波瀾万丈の私生活を写し取ったように自虐的で破天荒な作風で太宰治らとともに「無頼派」と呼ばれ戦後文学の礎を築いた。他の代表作は「風と光と二十の私と」「桜の森の満開の下」「不連続殺人事件」など。
伊沢の隣の家には気違いの資産家と、白痴の女房が住んでいた。ある晩伊沢が帰ると押し入れの中に、気違いから逃げてきたと思われる白痴の女が隠れていた。その日から奇妙な同棲生活を続ける伊沢と白痴の女だったが、大空襲の爆撃によって家を焼かれた二人は死体の山と火の海の中を懸命に逃げる。帰る場所も生きる希望も失った寒い夜、一人気ままに眠りこけている白痴の女の傍らで伊沢はただ朝が来るのを待ち続けるのだった。
 ある晩、おそくなり、ようやく終電にとりつくことのできた伊沢は、すでに私線がなかったので、相当の夜道を歩いて我が家へ戻ってきた。あかりをつけると奇妙に万年床の姿が見えず、留守中誰かが掃除をしたということも、誰かが這入ったことすらも例がないので訝りながら押し入れをあけると、積み重ねた蒲団の横に白痴の女がかくれていた。不安の眼で伊沢の顔色をうかがい蒲団の間へ顔をもぐらしてしまったが、伊沢の怒らぬことを知ると安堵のために親しさが溢れ、呆れるぐらい落ち着いてしまった。口の中でブツブツと呟くようにしか物を言わず、その呟きもこっちの訊ねることと何の関係もないことをああ言いまたこう言い自分自身の思いつめたことだけをそれもしごく漠然と要約して断片的に言い綴っている。伊沢は問わずに事情をさとり、たぶん叱られて思い余って逃げこんできたのだろうと思ったから、無益な怯えをなるべく与えぬ配慮によって質問を省略し、いつごろどこから這入ってきたかということだけを訊ねると、女は訳のわからぬことをあれこれブツブツ言ったあげく、片腕をまくりあげて、その一ヶ所をなでて(そこにはカスリ傷がついていた)私、痛いの、とか、今も痛むの、とか、さっきも痛かったの、とか、いろいろ時間をこまかく区切っているので、ともかく夜になってから窓から這入ったことがわかった。


 えー最初に言っておきますが今回はかなり筆者の個人的性癖が炸裂しています。女を馬鹿にする男は許せない! とかいう女性読者の方がもしいらっしゃるようでしたら今のうち退散しておくことを強く推奨いたします。なにしろ今回のテーマはタイトル通り、「白痴女の魅力」についてですので…

 …と一応形ばかりの注意を行ったところでいつもの口調で萌え語りに入ると、まず上記の文章は主人公・伊沢が初めて白痴の女と出会うシーン。ある日仕事から帰って押し入れを開けたらそこには隣の家の気になる女の子が隠れていた! …って冒頭からもうそれなんてエロゲとしか言いようのないコテコテの押しかけ女房系展開である。しかも不法侵入してきたくせにそれが悪いことだと思うオツムがないから遠慮や謝罪の言葉の一つもなく、「私痛いの」とかマイペースにぶつぶつ呟いている。これ! そうだよこういうのでいいんだよ、人の話なんか聞いちゃいない天然マイペースなところが良いんだよ白痴娘は。

 この後親切から布団を用意してやる伊沢と、伊沢に怯えながら少しずつ懐いていく白痴の女とのドタバタラブコメ的展開があり、なんだかんだで同棲生活が始まるわけなのだがそこで「伊沢が初めて白痴の女の肉体に触れた日」とその後日談についての描写が少しありこの辺りの文章がもうたまらなくエロい。直接的な性描写は一切ないにも関わらずエロく、そして萌える。どれくらいエロいか、まずは読んでもらおう。


 その日から白痴の女はただ待ちもうけている肉体であるにすぎずそのほかの何の生活も、ただひときれの考えすらもないのであった。常にただ待ちもうけていた。伊沢の手が女の肉体の一部にふれるというだけで、女の意識する全部のことは肉体の行為であり、そして身体も、そして顔も、ただ待ちもうけているのみであった。驚くべきことに、深夜、伊沢の手が女にふれるというだけで、眠り痴れた肉体が同一の反応を起こし、肉体のみは常に生き、ただ待ちもうけているのである。眠りながらも! けれども、目覚めている女の頭に何事が考えられているかと言えば、もともとただの空虚であり、あるものはただ魂の昏睡と、そして生きている肉体のみではないか。目覚めた時も魂はねむり、ねむった時もその肉体は目覚めている。あるものはただ無自覚な肉慾のみ。それはあらゆる時間に目覚め、虫の如き倦まざる反応の蠢動を起こす肉体であるにすぎない。

 アレだ、エロ漫画でたまに犯されすぎて最後「らめぇぇぇ〜! せっくしゅ! せっくすしゅるのぉ〜! 寝てるときでもしてくれなきゃらめなにょおぉぉ〜〜!」みたいになっちゃう展開あるけどまさにそんな感じ。だってちょっと触っただけですぐスイッチ入ってセックスして〜して〜状態になっちゃうんだぜ? 寝てるときでさえ身体は反応しちゃうんだぜ? こんな極上物件が勝手に向こうから転がり込んできて居着いてくれるっていうんだから、本当に羨ましい話である。代わってもらえるなら例え戦争で家を焼かれようとも、極貧生活が待っていようとも僕は白痴とセックス三昧の日々を選びたいと心から思う。

 終盤は東京大空襲の爆撃から白痴の女を連れて逃げる伊沢が目にする地獄絵図の描写が続き、萌えの要素はほとんど見られなくなる。でもその火の海を走る最中、伊沢に「死ぬ時は二人いっしょだよ。俺から離れずについてきなさい」と言われた白痴の女が初めて意志を持ってごくんと頷くシーンは地味にじわじわと萌えが来る。まるで拾ってきた捨て猫に餌を与え続けているうち初めて自分にすり寄ってきてくれたのを見たような、そんな種類の萌え。伊沢はこの頷きに「感動で気が狂いそうになった」と述懐するが、これは要は伊沢も萌えたのだと解釈してもこの作品の読解上なんら差し支えはないはずだ。そう、「白痴」という作品における白痴の女とは、戦争という強大なキチガイ行為の前から逆らう意志も持てず怯え逃げ惑うだけの当時の日本人の弱さや愚かさそのものなのだ。坂口安吾が書いたのはその弱さや愚かさに対しての肯定であり愛であり、すなわち萌えである。であるならば僕のようなちょっとオツムの弱い女の子萌えの男がこの作品で主人公伊沢のように、白痴の女を肯定し愛し萌えることもすべては坂口先生の意図通りであり正しい行為なのである。つまり結論として白痴萌えとは決して軽蔑を受けるような性的嗜好ではなく、本来は賞賛されるべき文学的で高尚な嗜好であるということだ! わかったらもう俺に「白痴萌えとか言う人サイテーです」みたいなマジレスメール送ってくるんじゃねえぞお前ら!(すでに何度か受け取っています)

萌えパワー読みやすさ総合おすすめ度 まとめ
☆☆☆☆ ☆☆☆★☆☆☆☆看板に偽りなし、素晴らしき白痴萌え

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