最終回お題「夢オチ」
「はっ!」
跳ねるように飛び起きた僕は、隣に裸の女が安らかな寝息を立てているのに気づく。
カーテンの向こうはうっすらと明るみ、小鳥の囀りがわずかに聞こえる。これから本格的に朝がやってこようとしている、そんな時間であるらしいことを知る。
ところが僕の頭の中には「今が朝だ」ということ以外、何も情報がない。なぜ自分はこんな見たこともない部屋で眠っていたのか。ここは住所で言えばどこなのか。寝ている裸の女は誰なのか。いや、もっと根源的な疑問が一つある。いったい僕は誰なのか?
まだ覚醒しきっていない頭を必死で動かしてみるが、どうしても思い出せない。思い出せないというより、思い出すべき記憶が最初から何も入っていない。まるで引っ越しで全てを片付けた後のからっぽの部屋を眺めているような、そんな感覚。
「ユキオ君、おはよう…今日は早いのね。また朝から会議なの?」
裸の女が身を起こして僕に話しかけてくる。年齢は見たところ二十歳前後だろうか。化粧をしていない起き抜けの顔でこれだけ整っているとなると、きっと昼間のこの子は男が放っておかないだろう。
「ユキオ君、というのは、僕の名前ってことでいいんだよね?」
奇妙な質問と思われるだろうことを知りながら、一応僕は訊いてみた。案の定裸の女は「何を言い出すのかしらこの人は?」という微笑みを浮かべ、
「そうよ。あなたの名前はユキオ。25歳。私の名前は舞。21歳。あなたは日本最大の広告代理店の社員で、私はその会社の社長の一人娘。私たちは婚約中の恋人同士で、パパに買ってもらった広尾のマンションに先月から一緒に住んでいる。ここまではOK?」と言った。
ここまではOKも何も、何一つとしてOKと言えそうな要素に思い当たらない。名前はまあいいだろう。自分の意志で選んだものじゃない、最初から決まっているものだ。だが他の要素は何だ? 広告代理店? 僕にそんなすごいところで働ける学力も甲斐性もあるわけがない。社長の一人娘? 僕にそんなすごい女とつきあえる魅力も甲斐性もあるわけがない。たとえ高級マンションだろうがなんだろうが、広尾なんて不便なところに僕が住みたがるわけがない。おかしい。何もかもがおかしい。
「ユキオ君、さっきから変だけどどうしたの? 体調でも悪いの?」と女が言った。
「いや、僕の体調がどうこういう問題じゃなくて…」と僕は言った。
「この世界がきっと変なんだ。僕は僕の知っている僕じゃない。
たぶん僕は今、間違った別の世界にいる」
ぎしっ、とベッドが揺れる音がした。女が半身を起こして言った。
「つまりそれは、ここがユキオ君の見ている夢の中の世界かもしれないって、そう言いたいの?」
「それも可能性の一つだ」と僕は答えた。「そう考えるのが、現時点では一番しっくりくるね」
「でもあるいはもしかしたら、逆なのかもしれないわよ」と女が言った。
「逆?」
「つまりあなたが知っているという本来の自分の記憶とやらのほうが、長い夢の中で見続けてきた仮初めの記憶かもしれない、ってこと」
僕はその可能性について少し考えてみようとする。でも駄目だ。頭が痛くて思考がうまくまとまらない。
「あなたは確か、インターネットにホームページを持っていると言っていたわ」と女が言った。「もう10年も続けてるんだって、いつも私に自慢していた。もしかしたら、あなたの記憶のカギはそのホームページにあるんじゃないかしら?」
僕は部屋の隅に置かれていたiMacの元へ、ふらふらと歩き出す。Macは一度か二度しか触ったことはなかったが、なんとか起動に成功しブラウザのブックマークからそれらしいサイトに辿り着く。名前は「かまくら」。
「あなたはインターネットという架空の世界で雪男という『もう一人の自分』を演じ続けていた。それも10年も。
あなたの中で『もう一人の自分』は少しづつリアリティを持って育ち続け、そしてとうとう10年経って主人格との入れ替わりを果たすべく表に現れてきた。そういう可能性は考えられない?」
僕は「かまくら」というサイトの中の日記を黙々と読み続ける。なんという下品でくだらない日記。しかしその中に書かれている主義主張や過去の思い出話などは、全てがしっくりときた。僕は確信する。これが、このサイトに書かれている雪男という人間こそが、僕だ。中出しとAVとCLAMPが大好きなこの男こそが、本当の僕だ。広告代理店にも勤めていないし社長の娘とつきあってもいない。広尾のマンションにも住んでいない。そんな生き方を、僕という人間が選ぶわけがないのだ。
「あるいはこういう可能性もある」と僕は言った。
「今ここにいる僕自身、そしてこの世界そのものが、フィクションである可能性。
もっとはっきりとわかりやすく言えば…僕らは『かまくらの雪男』というモニタの向こうの人間の手によって書かれたネット上の日記の、登場人物に過ぎないのかもしれない」
女はいつの間にかベッドから起きていて、ガウンを羽織っていた。そしてベッドサイドから煙草を取り出し火をつける。
「なかなか面白い発想ね」と女は言った。「つまりこういうこと? 私たちが今いるこの世界こそがインターネットの中に創られた虚構の世界であり、ここから見えるインターネットの向こうの世界こそが『本当の世界』である、と」
「きっとそういうことなんだろうと思う」と僕は言った。
女は項垂れた姿勢のまま何か考え込み始める。落ち込んでいるのかと思ったが、違った。
「あなたの言うことが仮に本当だったとして」と女は言った。
「それが何だというの? この世界ではあなたは若くして大金持ち。仕事は順調、社長の娘である私もあなたにベタ惚れ。これって客観的に見て、ものすごく幸せな生活だと思わない? 例えこの世界がフィクションだろうとも夢の中だろうとも、こんな素晴らしい生活を永遠に続けていられるならそれでいいじゃない。難しいこと考えず、用意された幸運をただ黙って享受していればいいのよ」
僕はそれについて少し考えてみる。言われてみれば確かにそうだ。日記を読む限り、どうせ現実の僕はろくでもない負け犬のような人生しか送っていない凡人なのだ。この世界で成功者として豊かな生活が送れるなら、それでいいじゃないか。
でも僕は首を振る。女はじっと僕を見つめている。
「確かにこの世界は僕にとっては『ほぼ』完璧な世界だ」と僕は言った。「欲しいもののほとんどを手にしている、理想の世界だ。だが僕は気づいてしまった。この世界に欠けているただ一片のピースの存在に」
「欠けた…ピース?」と女は笑った。「それは一体なんなのかしら?」
「とぼけるなよ」と僕は言った。「君は最初から気づいてたんだろ? この世界…いや、この日記が、こうしていつまでも終わらずに延々と続いている、その本当の理由に」
僕は部屋の隅になぜか転がっていた、バールのようなものを手に握りしめる。そして一歩ずつゆっくりと女に近づいていく。
「さあ? なんのことかしら」と女が言った。
「君のことだよ。舞」と僕は言った。「君という存在が間違っているんだ。君というエラー因子さえ修正できれば…この世界に欠けたピースは埋まる」
僕は女の頭に向かってバールのようなものを静かに振り上げる。初めて女が動揺を見せる。
「ちょ、ちょっと…何をする気なの!? まさか私を殺すつもり!?」
「殺したりなんてしないよ」と僕は言った。「僕の読みが正しければ、これで全てが終わる」
僕はためらいなく凶器を女の頭に振り下ろす。ゴツッ、という鈍い音がして女が倒れた。頭から出血こそしていなかったが、脳には多大なるダメージが入っただろう。僕は倒れた女の姿を見下ろしながら、ただじっとその時を待つ。女が目覚め、生まれ変わる瞬間を。
長い一時間が過ぎ、ようやく女が目を覚ます。そして纏っていたガウンを脱ぎ去った後、叫ぶ。
「チンポ〜〜〜〜〜!!」
女の叫びと共に突如として世界が歪み、色彩を失い始める。欠けていたピース…「オチ」がついたことで、日記が完成したのだ。「ほぼ」完璧だった世界で僕にとって唯一完璧でなかった設定、女が才女であるという設定を白痴に書き換えたことで、この世界は今度こそ完璧な世界に作り替えられたのだ。そしておそらくこの世界における僕の役目も、これで終わったのだろう。僕はこの偽りの世界から、解放されるのだ。
そして全ては崩れ出し、世界の漂白化が始まった。
『chi』さんからのお題でした、ありがとうございました